南風荘
前回の話のつづきである。私は『風来荘』につづき、『風来房』という文字を墨で半紙に書いた。南風がその村の墓石屋にたのんで、欅の大きな板に彫らせて墨を入れるという。
しかし、その半紙を壁に貼って眺めてみると、「荘」と「房」の違いだけでまぎらわしいのである。例えば、村のお婆さんが山菜を届けてくれるといっても、どちらに届けていいのかわからなくなるであろう。
で、先ほど南風と電話で話をした。2軒目の家、つまり我われが寝泊まりする方の家の名前は南風が住んでいるのだから『南風荘』にしよう。『風来荘』と『南風荘』、どちらも「風」が吹いている。気持ちがいいじゃないか。南風もこの意見に同意した。
『南風荘』の広い1階には、囲炉裏がふたつ切られているという。2階には、古民家なのに1枚板のカウンターが走るホームバーがあるという。たぶん、そこで私はキリリと冷えたマティーニをつくるであろう。村の出身者からダイアトーンの大型スピーカーも近々届くという。
そのOという集落は昔の街道沿いで、芭蕉の足跡も残っている。そのあたりでは珍しく、昔から旅人には排他的ではない土地柄だったそうだ。でも村人の誇りは高く、派手な建物や広告看板などは一切ご法度だとの事。
民俗学者の折口信夫の説によると、ある種の集落にはよその地から来る「希人(マレビト)」を歓迎する風習があったらしい。それは狭い地域で血が濃くなる事をさけるための手段だったらしい。つまり、新しい血をもってくるひと、新しい種を蒔くひと、「魔羅人(マラビト)」を歓迎するという事だったらしい。
南風は、来週にもトラックで冷蔵庫などの生活道具を秋田から運ぶという。マレビトでマラビトの引っ越しである。
「オレは、ヤルときはヤルよ。早いヨ」
風来房
南風の話には、つづきがある。先ほど、「いま、新潟から秋田に帰った」と電話があった。
「いやはや凄い事だ。『風来荘』の他に、もう一軒家をもらってしまったんだ」
江戸時代に建てられた例の豪邸を月1万円で南風が借りるという事になった夜、その味噌醸造元の家で、近くのM市の市議会議長をしている親戚の長老をふくめて、酒を交わしながら熊鍋を食べた。その地は出羽山脈を後ろにもつ、マタギの里でもあったのだ。その熊鍋は驚くほどウマカッタと南風はいう。
その市議会議長をしている I 氏はボーリング(掘削)事業で成功したその地域の有力者であり、彼が南風をえらく気にいった。「すぐ、この村に来なさい。でも、風来荘を修理するまで住むところに困るだろう。ワシが去年まで住んでいた家を使いなさい。ずーっと住んでいいから」と言ったらしい。
で翌日行ってみると、その家も部屋数10以上もある立派な古民家で囲炉裏もふたつあった。さらに電気、ガス、水洗トイレ、ヒカリ通信もついていた。住むには、こちらのほうがいいようだ。
そこで、南風考えた。『風来荘』は大き過ぎる。あれはある意味で文化財である。あそこに絵や写真の展示ができるギャラリーをつくったり、子供たちに英語やアートを教える塾をつくった方がいいのではないか。つまり、村の活性化に使おう。そして、もう一軒の I 氏の家(こちらも豪邸)を我われの拠点にすべきではないか。無料だし。
南風は、近いうちに生活の拠点を秋田から新潟に移すという。根っからのヒッピーにとって、それは難しい事ではない。だが秋田の山の家も街の家も、今回と同じような事情を経てただで借りたものだから、ないがしろにはできない。それはそれとして、これからも維持していくと言う。まるで、一夫多妻制を享受するどこかの国のノホホン男である。
「という事なんだけど、もう一軒の方の家の名前を考えてくれないか」
私はただちに答えた。「大きい方が『風来荘』なら、小さい方は『風来房』さ。意味的にも、〝荘″は大で、〝房″は小であり、〝離れ″でもある」「我われ風来坊は、『風来房』に泊まって、遊ぼう」
この夏、我われは新潟の山里で会う。
風来荘
またまた、秋田のアナザー・スズキこと南風である。4月末、彼は東京に来て私のところで泊まりがけで大いに飲み、そして秋田に帰っていった。しかし2日後、「いま、まだ新潟にいる。たいへんな事になっているんだ、ハハハッ」と電話があった。
聞くと、こういう事である。軽四の車を走らせていると、新潟と山形の県境近くにヤマザクラの美しい山里があった。写真を撮りながらその奥に入っていくと小さな集落があり、そこに見事な古民家があった。彼は車を停め、それを写真に撮っていた。すると、そこにその家の持ち主が現れ、会話を交わした。南風の天然な人柄もあり、またたく間に昵懇の間柄になった。
その家の主人が言うには、「この家は江戸時代、1885年に造られたものだ。瓦はその時代のものだし、柱も一辺90センチある立派なものだ。このあたりの庄屋であり、蚕も飼っていたので3階建てだ。だけど、いまは使っていない。私は、いま近くの町で味噌の醸造業を営んでいる。生活の拠点がそちらに移ったので、この家もそのうち壊すしかないのだ」
家の持ち主は、その広大な家の中を案内してくれた。どっしりとした家具もあり、それはそれは見事なものだった。そこから話は、思わぬ展開となった。
「あんた、もしよかったら、この家を使うかい?」「えっ、ほんとに!」
本来なら、県の重要文化財に指定されてもおかしくない豪邸である。その夜、私に電話がかかってきた。
「ただみたいな値段で借りる事ができそうなんだ。オレたちの別荘というか、拠点にしないか。とりあえず、この家の名前を考えておいてくれ」
そして、昨夜である。「オレ秋田から戻って、いま新潟。例の村にいるんだけど、村の長老5人が集まって酒を飲みながら話し、了承された。あの家を借りる事になった。月1万円で、年間12万円」
私は言った。「オメデトウ。名前はもう考えてある。『風来荘』でどう。風来坊の集まるところだから」「いいね、それでいこう!」
おもわぬ事がおこるものだ。これも、南風の無欲な人柄の呼びよせた奇遇である。田舎のひとは、欲がらみかそうでないか、という事には敏感である。南風を見て、こいつは信用できる、と見抜いたのであろう。
この夏は、新潟の山奥で遊ぼうとおもう。
北帰行
昨日まで数日間、墓参りがてら北海道に帰省していた。桜は、まだ咲きはじめたばかり。ニセコ連峰と羊蹄山を望む故郷の景色は雄大で、空気はさらさらと清い。このような素晴らしい環境で私は子供の頃を過ごし、その後なぜグレてしまったのかと首をひねった。
2日目の昼食後、小学校の裏山を散策した。お婆さんが3人、ミツバを採っていた。「売ってるのとちがって、香りが濃いんだよー」と言う。その北斜面を少し降りると、薄紫色のカタクリの花と水色のエゾエンゴサク、白い花のニリンソウがぎっしりと群生していた。葉の大きなエンレイソウも、小さな褐色の花をつけてぽつぽつと点在している。とにかく、山肌いっぱいを可憐な花々がおおい尽している。
その秘密の花園のような斜面に立って煙草を吸っていると、妙な思いに襲われた。ぬるりと濡れた粘土に触る感覚である。粘土・・暗闇・・・懐中電灯・・・・「あっ、そうか、あれか!」
たしか、小学校の6年生の頃だ。この斜面のどこかに〝防空壕″を見つけて、友人のサトルと探検をしたのだ。斜面に穿かれた穴は小さかったが中に入ると少し広い空間があった。その奥は粘土質の狭い横穴で、懐中電灯を片手に進んで行くと首までの水溜りがあり、その先はあまりに狭くて這って進んだ。しかし、それもすぐに行き止まりになった。防空壕から出てきた私たちは、全身ずぶ濡れで、粘土色になっていた。夏なのに、からだがひどく冷えていたのをおぼえている。
しかし、北海道の人口3000人ほどの寒村に防空壕は必要だったのだろうか。アメリカは、ひとより馬や牛の多いところを爆撃するだろうか。爆弾のムダであろう。サトルと私は〝防空壕″を見つけたつもりで探検したが、違っていたのではないだろうか。となると、あの穴は何だったのだろう。金鉱掘りか、埋蔵金か。私は淡い色の花々に囲まれた斜面で、想いをめぐらせた。
プルーストは『失われた時を求めて』で、主人公がマドレーヌを紅茶に浸した瞬間、その香りをきっかけとして幼年時代を思い出すことから3000ページにおよぶ大長編を書いたが、私の場合はそのような有意義な事は起こらない。ただただ泥だらけの思い出を思い出しただけである。
憲法と被差別とミステリー
そうか、きょうは何の祭日かとおもっていたら憲法記念日か。それで、思い出すことがある。
昔、永六輔の本で読んだ庶民の声である。
「日本の憲法が押しつけられたものだっていってもさ。人間はふつう、それがイイもんなら受け入れるじゃん。例えばさ、押しつけられた女がさ、すごくイイ女だったら、誰も文句は言わないだろう」
そういうもんだとおもう。私は政治に関心がないが、日本国憲法は世界に誇りうる希な憲法だとおもう。とくに、第9条は。押しつけたといわれるアメリカさえ持つことのできなかった高邁にして現実的なものである。「軍隊を持ちません」、「戦争をしません」。小学生でもわかる国の正しい基本を言葉にした憲法である。それを変えようというバカがいまだにいるのだから、情けない。
世界中の国歌をその国の言葉で、ジョン・レノンの「I MAG I NE」にしたらいいとおもう。
〝想像してごらん”で始まるあの平和をうたう歌詞の意味は誰でも理解できるだろう。すくなくとも、私は「君が代」が「I MAG I NE」になってもかまわない。それを最初に歓ばれるのは、今上天皇と皇后であろう。両陛下は、「君が代」の歌詞を好きではないとおもう。何年か前の園遊会で、将棋指しの米長とかいう男が「日本中の小中学校で君が代を歌わせたいとおもいます」とおべんちゃらを言ったとき、天皇陛下は「強制はいけませんね」とピシャリと返した。
陛下はああ見えて、かなり男らしいのである。あの瞬間、私はあの方のファンになった。
私たちはいまの平和憲法のもとで、なんとか生きている。酒を飲んだり、本を読んだり、くだらなくともそれなりの日々を過ごしている。これは世界的視野に立つと、希なこととおもうべきことなのだ。
きょう、上原善広の著した『異貌の人びと』という本を読みながらそうおもった。この本は、スペインのジプシー、ネパールのマオイスト、パレスチナ人、サハリンのウィルタ人など、被差別側の人びとを取材して書かれたものである。地球上には、明日をも知れぬ人々があふれているのだ。
上原は、『日本の路地を旅する』で大宅壮一ノンフィクション賞を獲ったいま私がもっとも期待する作家のひとりである。中上健二がフィクションで書いたことをノンフィクションで書き綴っている。大阪体育大学卒。
この数日間で読んだ本のついでにいうと、高野和明の『ジェノサイド』と『13階段』はどちらも死ぬほど面白いミステリーでした。とくに『ジェノサイド』は、ついに日本にもフレデリック・フォーサイス並みの本格的エンターテイメント小説家が出てきたかと思わせるものでした。オススメです。
友遠方へ帰る
一昨夕、アナザー・スズキこと秋田の佐竹南風氏がわが家を再訪。ビール、マティーニ、ウィスキー、焼酎、また宴会である。料理の鉄人ケンジ君もきた。ツブ貝の煮もの、サクラエビとセリの合えものなどをつくってくれる。ケヴィンこと、タナカ君もきた。
その前日、南風氏とケヴィンは渋谷で初めて会い、お茶をした。そして、話の流れから円山町神泉駅前にある東電OL事件の現場となったアパートを見にいったとのこと。やはりふたりとも、その場で、ぞっとするような負のオーラを感じたらしい。好奇心豊かなご両人の〝ふしぎ発見″である。
とにかくまた、朝まで大笑いしながら飲んだ、飲んだ、飲んだ、果てしなく。
そして、アナザー・スズキの「アナザー」の意味するものを4人で検証した。結論としては「アンチ」でもなく、「もうひとりの」でもない。いうならば、「ただの、ひとりの」である。例えるならば、「反戦」ではなく、「非戦」の「非」である。どこにも属さない「アナザー」である。そういう意味で、私も「アナザー・ワタナベ」なのである。
飲んで、飲んで、眠って、起きて、朝からまた飲んで。前回も今回も、その繰り返しだった。久々に腹から笑って、笑い転げた。(私は、笑いながら椅子から転げ落ちたような記憶がかすかにある)
ちょっと知的で、ちょっとエッチで、ちょっとウィットのある会話とともに、大量のアルコールが流れていった。(開高さんも、同じ空間にいたのではないだろうか)
南風氏はジャーナリストとして世界70カ国を歩いている。英語にも長けているので問うと、30代でテキサス大学の大学院で、ジャーナリズム論の特別講義を受けたとのこと。また、古典からミステリーまで万巻の書を読んでいる。話題に事欠かない。たくまざるユーモアと飄々とした語り口で、場をなごませてくれる。一切の上昇志向、権力志向がないので、人品骨柄きわめて上品。そして、なかなかの人たらしでもある。私の友人のケンジ君、アサノ君、タナカ君、皆たちまち南風ファンになってしまった。
今夜、彼は秋田の山奥に戻る。VAYA CON DIOS! 神とともに行け!
友遠方より来たる
一昨日の夕方である。アナザー・スズキこと秋田の佐竹南風氏から電話があった。ちょっと面白い計画があり、相談したいという。熱っぽく言葉を連ねているうちに、「あぁ、直接話したい。よし、オレ、これから東京に行くわ! うん、今夜、車で発つ!」
私が彼と会うのは、今回が2度目。2カ月ほど前に、銀座の中華レストランで1時間半ほど会っただけ。でも何だか気があって、その後、メールや電話での交流はつづいていた。
さて、秋田からの熱風である。600キロの道のりを、3万円で買ったという1987年製の軽四“ヴィヴィオ”を飛ばして8時間。徹夜で走って、私のところにやってきた。ビールとウィスキーを飲みながら私のつくった昼食をとり、数時間ほど爆睡。むっくりと起きてまた、ふたりでビール、マティーニと飲みはじめる。
日が暮れる頃、料理の鉄人ケンジ君があらわれて酒の肴をつくり始める。フキノトウの味噌あえ、タケノコの煮物、ホタルイカの生春巻き、生ハムのナントカなどの絶品料理がテーブルに並んだ。アハハ、アハハと3人で飲む。
友人のケヴィンも来るはずだったが、風邪をひいてきょうは寝込んでいるとのこと。残念。
夜の8時をまわった頃である。ペスカドールにして、パタゴニアンA君ことアサノ君から電話あり。
3週間におよぶパタゴニア巨大鱒の釣行から帰還し、いま成田にいるという。
「わが家に、アナザー・スズキが来ているよ。帰り道に寄らない?」
来ました、アサノ君。40数時間におよぶ空の旅の疲れなど一切見せず、今回の旅の成果をパソコン画面で次々と見せてくれる。
アナザー・スズキもアサノ君と会うなり、いきなり意気投合。百年の知己である。夜半過ぎまで、4人でとことん盛り上がった。
それにしても、である。開高健との旅でパタゴニアのフェゴ島、地球最果ての町といわれるウスアイアに行ったアナザー・スズキ。そして、そのウスアイアへの何度目かの旅から帰還して数時間のアサノ君が、わが家で偶然のような邂逅である。ケヴィンも数年前、ウスアイアに釣りに行っている。こんなこと、日本ではめったにはない事であろう。
オバカさん、変人、ノーテンキ。でも全員、からだのまわりに自由な風が流れている。なぜか、こういう連中ばかりが私のまわりに集まってくる。不思議であり、幸せでもある。
東電OL殺人事件
佐野真一が著した上記タイトルの本を10数年ぶりに読みなおした。1997年に渋谷円山町で起きた東京電力エリート女性社員が絞殺死体で発見されたあの有名な事件をノンフィクション作家の佐野真一が事件直後から、丁寧に、しつこく追いかけた作品である。犯人とされたネパール人のゴビンダ・マイナリの冤罪を告発するものでもある。
なぜ読みなおしたかというと、昨年東電が福島で起こした原発事故である。あの事故後に、あの殺人事件をふり返ると、また違った色合いを帯びてくるのではないかと思ったのである。被害者の渡辺泰子は、東大工学部卒で東電幹部だった父親と日本女子大を出た母親との間に生まれた東電きってのエリートOLだった。彼女は慶応女子高から慶応大学経済学部を卒業して東電に入社。女性総合職の先端にいた。その彼女が夜毎、渋谷円山町の街頭に立って春を売っていた。そして、井の頭線神泉駅踏切脇のボロアパートの空き部屋で首を絞められて殺された。
当時、私も円山町でときどき酒を飲んでいた。渋谷道玄坂をのぼりきった右側あたりにあるいわゆる旧三業地である。三業地とは芸妓置屋、料理屋、待合をそなえた花街のことだが、すでにその頃、ラブホテル街になっていた。くねくねと高低差のある路地を友人とふらふらと歩き、よさそうな店の暖簾をくぐってカウンターで飲みはじめるのだが、いつも首のあたりに妙に濃厚過ぎる空気を感じた。土地の磁場が異常にねっとりとしているのである。けっきょく毎回、背中に重いものを感じて、中目黒あたりに移動するのだった。
このあたりは江戸時代、火葬場があったため隠亡谷(おんぼうだに)と呼ばれていたらしい。
佐野真一の『東電OL殺人事件』という本は、彼の渾身の作である。すこしセンセーショナル気味に書く傾向はあるが、それも個性であろう。
この本の真骨頂は、第1章の「迷宮」にある。渋谷円山町という三業地をホテル街に変えたのは、〝岐阜グループ”という人々だったという。戦後、岐阜の奥飛騨に御母衣(みぼろ)ダムという
東洋一の大規模ダムをつくることになり、その工事で水没した村の人々が莫大な補償金を手にし、この街にやってきてホテル業を始めた。そのダムの建設主体は東京電力だったという。
つまり、東京電力→御母衣ダム→村の水没→補償金→円山ラブホテル街→東電OL殺人事件。ぐるっと回って、父の代から東京電力のエリートであった女性が、そのゆかりの地で春をひさぎながら殺された。因果応報ともいえるし、輪廻転生のようなものを感じさせられる事件である。
「客」として2年間つきあった50代の男によれば、彼女は東京電力に勤めていることを異常なほど誇りに思っており、電力こそ日本経済を支える最大不可欠の原動力だと熱っぽく語るのが常だったという。
VAYA CON DIOS
バイア コン ディアス! 神とともに行け! スペイン語のあらたまったときの別れの言葉。いま深更、久しぶりに開高健の『もっと広く!』の最終章のあたりを読み返していた。
最近、当ブログによく登場する佐竹南風氏ことアナザー・スズキの活躍する開高本の旅の大団円である。アラスカから5万数千キロの釣りの旅を経て、最終ゴール南米最南端の町ウスアイアに辿りつくあたりである。アナザー・スズキは旅の途中で拾った南米大陸にそっくりの形をした平べったい石に、何かを書いてほしいと開高健にさしだす。フェルトペンで書かれたその300字ほどの最後に記されていたのが、「VAYA CON DIOS」という言葉だった。
「アナザー・スズキはベートーヴェンの『歓喜』を流しはじめ、ちょうど山をおりきってここがウスアイアだという歓迎の道標がたっている町の入口で、まさにその地点で大合唱がはじまるように車を加減して走らせた。このタイミングはまったく絶妙であった。小さな町の道標を見たと思ったとたんに、自動車が体をふるわせ、 おお、友よ・・・・」
と開高健はそのときのことを書いている。9カ月間に渡る男たちの旅は終わった。その長い長い旅だが、終わってみると、そこには酔後の虚無と胸苦しい倦怠しか残っていなかった。
ヘミングウェイの短篇『清潔な明るい場所』の中で、老人が呟く「すべては無(ナーダ)、かつ無(ナーダ)にして、また無(ナーダ)」という言葉を思い浮かべることで、作家の旅は円を閉じる。
ナーダ、ナーダ、ナーダ。しかし、そこには濃密な無とともに言葉の森が遺った。
羊たちの沈黙
私は、節を曲げた。あれほど地デジテレビ反対と言っていたのだが、きょう、ついに液晶の地デジテレビを買ってしまった。情けない。
私が地デジ反対だったのは、去年の夏頃まで、アナログテレビ画面の上下に「このテレビは見られなくなります」と人迷惑なテロップがのべつまくなく流れていたからである。
それに反発した。画面の上下に、そのテロップを隠すために黒いビニールテープを貼ったくらいである。しかしアパートの共同ケーブルのせいらしいが、私のアナログテレビはとにかくいままで通り見ることができた。
しかしである。上下が切られて、横長画面も左右を中途半ぱに切られると、実質的なアナログ的画面は自動的にすごく小さくなる。レンタルDVDで映画を見ても、あまりに画面が小さくてつまらないのである。だから、映画を見なくなった。
そこへ最近、メジャーリーグの野球が始まった。今年はダルビッシュであり、イチローも川崎もヤンキースの黒田も頑張っている。
さらにもうすぐ、ロンドン五輪である。私の愛する“なでしこジャパン”である。
私は、ひよった。やはり、ある程度大きな画面で澤選手や宮間選手、川澄選手の活躍を見たいと思ったのである。映画もしかりである。
そして今夜、新しいテレビを設置して最初に見た映画はやはり『羊たちの沈黙』。
私はこの映画を年に4度ほど見る。アンソニー・ホプキンス演じるハンニバル・レクターという知的モンスターがふたりの警官を撲殺したあと、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」にうっとりとするところが好きだ。彼と丁々発止に相手をする新人FBI捜査官役のジョディ・フォスターがまた素晴らしい。
私はこの原作を書いたトマス・ハリスの小説をすべて読んでいるが、ジョナサン・デミ監督の『羊たちの沈黙』に関していえば、映画が小説を超えているかもしれない。
私は、節を曲げた。つまり、そういう事である。でも、地デジの映像はやたらキレイであった。恥ずかしながら、節を曲げてよかったのかもしれないとおもった。
私は、テキトーな男である。高田純次の次くらいに。
あるぜんちな丸
先日、仕事がらみで、あるコーヒー事業で成功した人物のことを聞かされた。ひとの成功譚などどうでもいいのだが、その人物が1960年代に「あるぜんちな丸」という移民船で南米に渡ったと知り、少し懐かしい思いにかられた。
1971年の5月だったと思う。私もその「あるぜんちな丸」に、横浜の山下桟橋からリュックひとつで乗船した。21歳だった。青雲の志があったわけではない。ただ、外国に行きたかったのだ。その頃は1ドル360円の時代であり、飛行機でアメリカに行くのはあまりに高額であった。アメリカに行くもっとも安い手段は、移民船の3等船室、2段ベッドの4畳半に6人ほどの切符だったのだ。
神戸、ホノルルと寄港し、私はロスアンジェルスで下船した。
乗船客の大半は、これから南米に移住する人々。そして、南米移民一世の日本への里帰り客がまた南米に戻るというもの。皆さん、そうとうお歳を召していた。他は私のように働きながら旅をしようというフラチな人間。社会の底辺に潜り込んで、不法であれ、働きながら住んでみようという者たちであった。観光目的の客はごく少数だった。
年に2便の移民船だったが、その中から北米と南米にしっかりと根を下ろした人々がいまもいることであろう。そういう方々にはシンパシーを感じるし、幸せであれ、とおもう。「あるぜんちな丸」は、私が乗船した翌年、1972年に移民船としての使命を終えた。飛行機の時代に移ったのかもしれない。
その航海中に、私は船のサロンの本棚にあった『チャップリン自伝』と『パピヨン』という分厚い本を読んだ。どちらも、けた外れに面白い本だった。40年以上たっても、読んだ本の内容は、船が波を切るザーーーッという音とともに記憶している。
あの船旅で思い出すことがある。西洋人の白髪のお婆さんが、船内でいつも緑色のインコを肩に乗せていた。そして、小さな呟くような声でインコと会話を交わしていた。昼間の後部甲板のサンチェアで読書しているときも、食堂の席でも。まるで、人間と話しているように会話していた。
もともと人生なんて、旅である。タラップを降りたところから、また次の人生が転がる。
2012年宇宙の旅
「2001年宇宙の旅」というSF映画がある。1968年公開の衝撃的な作品だった。原作はアーサー・C・クラーク、監督はスタンリー・キューブリック。
猿人が獣の大腿骨で敵のボスを打ちのめし、雄たけびを上げ、その骨を空に放り投げたストップモーションから映画は始まったと記憶している。人類の祖先が、初めて道具を手にした瞬間である。そこに流れていたのは、リヒャルト・シュトラウスの壮大な交響詩曲「ツァラトゥストラはかく語りき」。
道具をもつ事を知り、武器をもった人類は、地球上の他の生物を支配し、やがて宇宙に飛び出していく。ヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」の調べに乗って。
宇宙船には、6人目の乗組員として万能コンピューターの「ハル」が乗っている。しかし、やがてその「ハル」が暴走を始め、人間に逆襲する。
それは、ニーチェの“人類の所有欲の膨張がやがては人類を滅ぼす”という予言を暗示する物語になっていく。人類の未来を残酷なまでに、正確に予知した作品である。
なぜ、いま私がこの昔の映画を思い出したかというと、弘前の高校山岳部の先輩、土方のマサが66歳にして最近パソコンを始めたというのである。その動機は、当ブログを読むためだとか。ありがたいことである。
通販のジャパネットたかたで注文したら、20センチ×25センチくらいのめちゃくちゃ小さな画面のパソコンが届いて、ガックリしたそうである。
「なんで、そんな小さいパソコンを買ったんだ」と訊くと、「カタログだから、実物のサイズがわからなかったんだ。通信会社と3年間契約する条件で、パソコンが1台100円だったんだ」と言う。
あのマサがゴリラのように太い指で小さなパソコンのキーをぽつぽつと叩いているところを想像すると、微笑まざるをえない。
マサには失礼ながら、人類の祖先が道具を使い始めた映画を思い出した次第である。
横浜アゲイン
不思議な事があるもんだ。酔っ払って、ふらふらと歩いて辿りついた店が、先週飲んだ店だった。しかも、横浜で。
昨夕、横浜の馬車道で、アートディレクターの浅葉克己さんと打ち合わせに出た。相手は20人くらいで、皆さん真面目そう。我われは、いつものように自然体であり、ふつうに仕事の企画意図を説明して、笑いのうちになごやかに終了。
浅葉事務所3人と、神奈川新聞の女性記者、そして私の5人で中華街に繰り出す。1960年代から80年代にかけて、浅葉さんにも私にも思い出の深い小さな中国料理屋『海員閣』を探していたら、ちょっとした記憶の底の路地にその店はいまもあった。
レストランというよりも食堂、上海の裏町にある下町食堂のたたずまいである。皮がコンドームよりも薄いシューマイが絶品であった。ビールと老酒をがんがん飲む。
さて、終電までまだ早い、もう少し飲もうという事になった。10分ほど、なんとなく歩いているうちに、良さそうなバーの看板があった。それは偶然、当ブログで前々回に書いた古い横浜の酒場『スリーマティーニ』だった。席に腰を下ろした浅葉さんも、「いい店だねぇ」という。カウンターには白髪の紳士、お洒落な中年男性、外人客、70代の上品な淑女などがずらりと並ぶ。我われはその景色をボックス席から眺めながら、「やはり、店の格は客がつくるんだね」と嘆息する。
それにしても、1週間前に知った酒場にまたバッタリである。横浜が、いま私を呼んでいるようだ。
浅葉さんとメニューから選んだ、「ヨコハマ」というジンとウオッカをベースにした赤いカクテルが絶品だった。あまりにおいしくて、私はおかわりをした。それを飲みながら、ふたりでアハハッと話した言葉から、今回のキャンペーンの基本的なヘソが出来てしまった。我われバカボンドは漫然と飲んでいるわけではないのだ。ただ酔っ払っているだけのオジサンではないのである。
そして、東京への帰路。浅葉さんと話していて、その仕事に関連して、我われの青春時代の横浜を再現する企画を思いついた。いま詳しくは言えないが、黒澤明の映画『天国と地獄』一場面の再現である。もう一度言う、我われはただ酔っ払っているだけのオジサンではないのである。
英国の元首相チャーチルは言ったそうだ。「アルコールが私から取り出したものより、私がアルコールから取り出したものの方が多い」
そりゃ、そうだ。私のガソリンは、アルコールだ。がんがん飲むと、がんがん走れる。
NZの新国技
ニュージーランドの友人ピーターから久々にメールが届いた。先週、NZ国会で、フライフィッシングが第二国技として認定された。第一国技は、いままでどおりラグビーであるが、それにつづいての国技が毛鉤による釣りになったというのである
ピーターのメールによると、この件についてはここ何年間も国会で討議されてきたらしい。「何で、釣りなのだ」という意見もあったらしい。しかし、「あらゆる川と湖、水のあるところに鱒がいる。それも、大きくて立派な天然の鱒がいる。それほどの自然がこの国にあるという事を国是としよう」という意見がけっきょく勝ったそうである。
その結果、小学校から男女を問わず、フライフィッシングのキャスティング(竿による毛鉤の投げ方)を授業で教えることとなった。そして、毛鉤のタイイング(巻き方)も必須科目となった。どういう季節の川や湖に、どういう水生昆虫や陸生昆虫がいて、それらを鱒たちはどのように選んで餌としているのか。それは、とうぜんの事として、子供たちにとっては自然の成り立ちと循環を学ぶ機会になるというわけである。
国技であるから、とうぜんスポーツフィッシングとしての競技も行われる。しかし、それはいかに大物を釣るかを競うものではない。キャッチ&リリースの徹底した国でもあるから、釣った鱒を傷つけずに川へ戻す事を前提としている。では、何を競うのか。
競うのは、いかに見事な釣りをしたか、それのみである。いかなる自然条件下で、どんなに素晴らしい鱒とどのようにファイトしたか。あるいはいかに見事な敗北をしたか。そして、それをいかに愉しんだか。その体験をを2000字から5000字以内にまとめて、NPO法人の『FISH&GAME協会』に送る。そこで荒選びされた数10本が国の文学振興会で審査され、その年の金賞、銀賞、銅賞が決まる。
つまり、スポーツと文学を一緒にした異種混合競技である。老若男女を問わない、車椅子生活者が思い出の釣りで参加する事もできる競技なのである。これぞ、これからの地球人のスポーツ競技といえるかもしれない。できるならば、私も参加したい。
きょうは、4月1日、エイプリフール。私は、理想を少し夢想した。
横浜根岸家
昨夕、横浜で打ちあわせがあった。終わると、横浜在住のインテリF氏に「渡辺さん好みのバーがあるんですけど、ちょっと行きませんか」と誘われた。異存はない。
山下公園近くの「スリーマティーニ」という店だった。なるほど、いかにも、とっても懐かしい港横浜の雰囲気。ブルーライト・ヨコハマであった。私はうれしくなって、ビール、マティーニ、ウイスキィーと次々にグラスを重ねた。そして、昔日の横浜を思い浮かべていた。
1970年、20歳の頃である。高校の先輩マサと横浜で沖仲師をした事がある。夜中に仕事が終わると、その場で金をもらい解散となる。そしてその金を握り、マサに連れていかれたところが伊勢佐木町の「根岸家」だった。外壁に「INTERNATIONAL RESTAURANT NEGISHIYA」と
大きな看板があったのを覚えている。
深夜だというのに、店は賑わっていた。というよりも、カオス、つまり混沌が渦巻いていた。広い店の天井にはミラーボールが7色の光を反射しながらぐるぐると回り、30ほどのボックス席でぐでんぐでんに酔っ払ったわけありの客たちが、てんでに騒いでいる。4、5歳の子供をふたり連れた丹前姿のオヤジもいた。ほとんどの客が、我われと同じ日雇い労働者。壁には「素足でご来店のお客様はお断りします」「グラスを割ったお客様には、弁償をお願いします」などという張り紙がある。素足のお客様とは、いかがなるものなのか。ここは、アフリカか。
そのうち、小さなステージで老ジャズバンドが演奏をはじめた。すると、客席から60代の娼婦とおもえる厚化粧の痩せた女性が扇子を片手にステージに飛び入りで上がって踊りはじめた。スーツ姿の、隻腕のマネージャーが指を口に当てて「ピューーーーッ!」と口笛を放つ。左手のボックス席で荒い声があがり、グラスの割れる音が聞こえた。弁償だ。
根岸家にはその後幾度も通ったが、1980年頃閉店し、直後に焼失したらしい。黒澤明の『天国と地獄』で山﨑努が酒場で踊りながら女性からヤクを受けとるシーンがあるが、あの店が根岸家である。黒澤が、「日本中でもっともイカガワシイ酒場を見つけてこい」と号令を出して、白羽の矢が立ったのが根岸家だったらしい。もとは戦後の進駐軍相手、その後は外国人船員相手、そして日雇い労働者相手へ、という店の変遷。濃い歴史をもった店である。
水清くして魚棲まず、酒場はご清潔だけではつまらない。







