So-net無料ブログ作成
検索選択
前の15件 | -

古唐津

昨日は日曜日、氷雨降るなか、昼前から銀座にでかけた。出光美術館で開かれている「古唐津」展覧会の最終日だった。

銀座逍遥のいつものコースとして有楽町交通会館の「どさんこプラザ」に寄り、鰊の糠漬けと三升漬けを購う。ついでに隣りのMUJIをちらりと覗き、4丁目の教文館で自身の本棚を整え、洗う。さて、前日からたのしみにしていた東京いち好きな松屋裏のラーメン屋「共楽」に向かう。頭に穴を開けていたときから、退院したら行くぞッとおもい焦がれていたラーメン屋だ。しかし閉ざされたシャッターには、「店内改装のため、3月18日からしばらく閉店します」の貼り紙。ひざが崩れそうなくらいガッカリした。仕方ない。次善の策として有楽町のラーメン屋でビールを飲み、餃子とラーメンを食べて、雨のなか、丸の内の出光美術館に出向いた。

私は骨董や陶器にさほどの知識はないが、焼き物では唐津が好きである。今回の展覧会は、16世紀後半から17世紀の桃山時代の古唐津。つまり戦国時代に朝鮮半島から陶工ごと渡ってきた垂涎の作ばかりが並べられていた。氷雨のなかでありながら、最終日とあって、展覧会はとてもにぎわっていた。なぜか、女性が多かった。出光コレクションの古唐津、13年ぶりのご開陳。出光はやはり、井戸茶碗とか朝鮮ものがスゴイ。

やわらかで、自在で、えらそうでない。眼福にすぎる焼き物がごろごろ。

大相撲の千秋楽であったので早々と銀座を辞した私だが、稀勢の里が決定戦で優勝するのをテレビで見ることができてよかった。大番狂わせだった。

相撲を見ながら糠にしんで三平汁をつくり、朝鮮の粉ひきもどきの徳利で日本酒に燗をつけ、現代ものだが唐津の皮鯨のぐい吞みでそれをいただきました。


この国の構造

大阪の森友学園、籠池理事長と安倍首相、そしてそれぞれの女房のキャクラター合戦が面白すぎる。

もともとは安倍の女房、昭惠が森友学園の名誉校長に就き、そこの小学校予定地の国有地が9割引きくらいで売られていたことが発覚し、それが問題の発端となった。そもそもはかんたんな事件で、きょくたんな愛国思想をもつ学園長夫妻がいて、きょくたんな愛国思想をもつ首相夫妻や稲田朋美防衛相がその思想に共鳴し、国有地の売買権をもつ財務省とその管轄下の大阪府の役人を動かしたというだけの話である。

話を面白くしたのは籠池という理事長と首相夫人昭惠のキャラクターである。籠池というのは10数年前にマンションの耐震強度偽装事件で世間を騒がしたヒューザー社長の小島とかいう濃いキャラを思いおこさせる。蛙の面にションベンというところが。もうひとり、蛙の面にションベンのキャラが安倍昭惠である。このごに及んで、「なんで私が注目されるのでしょうね」とヘラヘラ笑っている。

なぜ彼女があそこまで能天気なのかというと、それは彼女の出自と生い立ちにあるのかもしれない。昭惠は森永製菓創業家5代目の娘であり、聖心女学院から立教大学を卒業して電通に入社している。すべてコネ入学であり、コネ入社であり、嫁に行くまでの華麗なる経歴づくりである。電通時代は、宴会部長として飲み会を大いにもりあげていたらしい。それが彼女の仕事であった。そのころに安倍晋三を紹介されて結婚している。子どもはできなかった。

ここで正直にいうが、電通社員の大半はコネ入社である。社員の多くはこの国の政界や経済界に影響力をもっている者たちのご子息たちである。私も仕事で電通の社員たちとたくさん会ったが、優秀なのは100人にひとりいるかいないかである。電通にとって、社員は別に優秀でなくてもいいのである。日本社会の既得権益を回すのが会社にとっての仕事なのだから、既得権につながる社員がいるだけでいいのである。

森友学園の国有地売却問題だって、早い話がコネであり、クチキキであり、政治力である。そして教育勅語の好きな類友コネクション。

今後は、籠池のバックについたノンフィクション作家の菅野完という人物がカギを握るような気がします。いい意味でも、悪い意味でも。


ほッ

きょう、入院していた横浜の病院で、退院後3週間ぶりの再検査を受けた。執刀の前に、硬膜下血種手術の病状再発の可能性は約10%といわれていた。また出血して脳を圧迫する可能性である。

CT検査の結果は、ほぼ治っていた。頭蓋骨内部のモニター写真を見せられたが、血液の影はすこし残っているものの、これはそのうち自然に消えるでしょうとのこと。念のため1か月後にもう一度CTスキャンを撮り、そこで完治していたら薬の服用もやめて、治療を終えましょうと主治医にいわれた。

ほッとした。入院中に、頭や口からチューブを出して点滴につながれ、意識もなくベッドに横たわっている患者をずいぶん見た。ああなるのはイヤだった。(脳神経外科の病室は、異常事態にすぐ気づくようにドアは常にひらいている状態が多い)

今回は、まわりの人々にずいぶんと迷惑とご心配をかけた。酔って転んでの末の自業自得とはいえ、ただただ反省あるのみ。今後は、糖尿病の治療にまじめに努めたいとおもいます。従兄のKにいわせると、硬膜下血種なんて軽い交通事故みたいなもので、糖尿病の方がはるかに怖いよということである。

あと1週間ほどで、桜の開花である。今年は、良寛の「散る桜 残る桜も 散る桜」が
いままでにもまして身にしみることでしょう。


シャバダバダ

先週の土曜日の昼、横浜の病院を退院した。帰宅してすぐ、10日ぶりにビールを飲んだが思ったほどの感動はなかった。夕方、近くの神社に散歩がてら出かけた。境内に梅の木が数本、紅白の花を咲かせていた。その甘酸っぱい香りをかぎながら、「あぁ、生きている」と実感した。

入院中はあわてて持ちこんだノンフィクションや海外ミステリーを数冊読んだが、どれもいまいちだった。それで、見舞いに来るというHとMに夏目漱石の「吾輩は猫である」(新潮文庫)を所望した。私はこの歳まで「猫」を読んでいないことを気にしていたのである。そして読んで、驚いた。とてつもない教養小説なのであった。社会を風刺した噺だということは知っていたが、漢学と西洋文学を学びつくした漱石の処女作であり、そこに彼がすべての知識を遊びごころとともにはき出したものだった。真面目に読むと、難解といってもいい。とにかく現代版は脚注だらけである。当時、漱石の本の初版は2000部ほどだったというが、むべなるかな。とても、大衆が読みこなせるものではない。旧制高校卒以上のインテリしか相手にしていない。でも、それ以降の職業作家になってから書いた「坊ちゃん」や「こころ」「それから」などはもっとはるかに読みやすい。私のいちばん好きな「草枕」もしかり。処女作の「猫」がその難解さがゆえに一部高等遊民だけに受けたことを漱石は卑下したのかもしれない。だって、食うために働いて生きるほどツマラナイ人生はない。そのてん猫は気楽なもんだ、という本音を書きつらねたのだから。
ともあれ、「猫」は入院でもしていなければ読みこなせない小説であった。そしてやはり読むべき、こころに残る名作であった。

火曜日の朝、宅急便が届いた。昔、京都に住んでいたころの友人、バッグデザイナーH氏からのものだった。30年ほど前、私は彼にアウトドア用のショルダーバッグを作ってもらった。英国製の「ブレディ」というバッグを基調としたモスグリーンのものだった。私はそれを毎日、どこに行くにも携えて出かけた。スコットランドで、開高さんに「キミ、ええバッグ持ってるな」ともいわれた。しかし、30年以上も過ぎ、さすがにそれもくたくたにヘタッてきて、代わりの似たようなバッグを使っていた。だが、それも数年でヘタッてきた。そこで昨年の11月頃に、H氏に昔と同じものを作ってほしいと電話をした。「もうあのバッグの型紙もあらへんけど、昔のがあるんなら、送って。そのうち気が向いたら作るわ」
そして火曜日、新しいバッグが送られてきた。新作は生地が黒で、ふちどりの皮とショルダーベルトが焦げ茶。成熟した白髪のオヤジにぴったりのシブイ出来栄えである。あぁ、うれしい。完璧なデザインのショルダーバッグ。

バッグ・ツゥ・ザ・フューチャーなのだ。


生還

娑婆の空気がやけにうまいぜ。本日、10日間ほどの入院生活を終えて、無事退院いたしました。

年末に、酔って転んで頭をうった。年明けに脳神経外科でMRI検査を受けると、頭の左半分、頭蓋骨の下にある硬膜とくも膜のあいだに血が溜まっていた。そのあと2週間おきにさらに2度MRI検査を受けたが、そのたびに血の量がふえて、その下の脳を徐々に圧迫していた。そして、その血液がかたまりつつあった。「硬膜下血種」という症状である。

そして10日ほど前の午後2時過ぎ、予約していた歯医者に行こうと準備をしている途中で右半身の自由がきかなくなり、ずるずると床にくずれ落ちた。起き上がろうとしても、全身不如意。今そこにある危機という状態に陥った。もがいてももがいても、机のまえの椅子に上がれない。いままでの自堕落な生活が走馬灯のように駆けめぐる。アルコールの海を漂いつづけた日々がよみがえる。走馬灯をおおう紙は黒い紙でできていた。けっきょく机の上に置いたケータイに手が届くまで、5時間ほどかかった。やっと連絡がついたKがかけつけ、救急車がきて、緊急病院に運ばれた。

翌日、従兄のKが名誉院長をつとめている横浜の大きな脳神経外科病院に移送。その翌日、手術が施行された。頭蓋骨の左側頭部やや後方に直径1センチほどの穴をハンドドリルであけ、チューブを通して溜まった血液を抜き、さらに生理食塩水を注入して内部を洗浄する。頭の中がきれいになったところで、あけた穴にサイズを合わせた人工骨(セラミック)の蓋をし、切開した頭皮をかぶせてホッチキスでつなぎ合わせる。頭蓋骨内部と外界とは細いドレインチューブでつながっており、血のまじった余分な分泌液は2日間にわたって外に排出される。ざっとこのような手術だったが、開口部の頭皮に局所麻酔をうったせいかさほど痛くもなく、30分ほどの存外にあっさりとしたものだった。

ともあれ今回の件で、頭だけでなく内臓のMRI検査も受け、血液検査も受け、おかげで血糖値が高く糖尿病になりかかっていることがわかった。原因はひとえに過度のアルコール摂取によるもので、今後は酒をひかえ、薬を処方してもらいながら対処することになった。一病息災。私は健康診断というものを10数年に1度くらいしか受けたことがないので、この度は人間ドックに入ったようなもので結果的には大いによかった。ケガの功名ともいえようか。

最後に今後の酒と煙草であるが、これを機会にすっぱり止めるかというと、私はそんなヤワな男ではない。一度はじめたことを途中で止めるような意志薄弱ものではない。今後も適度にたのしみたいとおもう。なにしろ私だって、頭蓋骨と脳のあいだにたっぷりと溜まった血の海をモニターで何度も見せられたのである。もう強い酒をがぶがぶと飲むような無茶はしない。ほどほどに嗜みます。


名前

だいたいグラスを傾けているときである。いま、自分に子どもが生まれたら、どんな名前がいいのだろうと考えることがある。まったくもって、いい歳こいてのフラチな妄想である。そして、おもう。

すくなくとも、晋三とか、慎太郎とか、ドナルドとか、アドルフとか、要一(マスゾエ)とか、朋美(イナダ)とか、早苗(タカイチ)とか、珠代(マルカワ)、というような名前はつけたくないナとおもう。

名前というのは大事である。いい仕事をしたひとは、いい名前が多い。例として、夏目漱石、太宰治、山田風太郎とあげながら、すべてペンネームと思いいたった。だがしかし、五木寛之、伊集院静というナルシスチックな名前も、本人がその気になったら華が咲くという例もある。ちなみに菊池寛、芥川龍之介、中原中也、開高健、野坂昭如、朝吹真理子は実名である。こうなるとやはり、なしとげた仕事に名前がついてくるということか。私の渡辺裕一という平凡な名前も、ちゃんとしていたら、ちゃんとしていたのかもしれない。生まれてきて、スミマセンである。

2週間前、久しぶりにアートディレクターの浅葉克己さんにちょっとした打ちあわせでお会いしたが、70代半ばにして異常に元気であった。全身をイッセイ・ミヤケの服できめて、ウフフッと笑っている。化け物である。100歳まで生きるのではないだろうか。
なにしろ、アサバカツミという名前に、バカとツミが入っているのだから。


図書館への道

私の住むアパートの近くに、図書館がある。週に、1度か2度訪れる。途中に清々しい空気の流れる神社があり、いまは参道の奥に梅の木がひかえめに花をつけている。そして、境内にはいつも数匹の猫がいる。野良猫だとおもう。みんな、茶色のブチである。いつも私を上目づかいに見る。その目はいつも、「おまえ、ちゃんと生きてるか」というまなざしである。おおきなお世話だとおもう。

その先の図書館の目の前に、4棟ほどの大きな都営住宅がある。そのいつも通る道の8階建ての2階にゴミ屋敷がある。ベランダにあふれんばかりのありとあらゆるゴミが積み重なっている。家の中は見えないが、ときどき電灯がともっている。たぶん、住民や管理組合のあいだで問題になっているのであろうが、この10年なんの動きもない。私はいつも、その景色を見るたびに、どちらに味方していいのか悩まされている。

私は20代前半のころ、図書館に勤めたいとおもっていた。好きな本を読むだけの人生を過ごしたいとおもっていた。しかし、それには司書とかいう資格がいると知り、あきらめた。車の免許をとるのもイヤなのだから、そんなことは面倒くさい。

10年ほど前だが、憧れの「国会図書館」に行った。国内で出版されるすべての本が収められているという、私にとっての宝島ある。万巻の書が延々とつづく書庫をさまよい歩くわが身を想像した。しかし、そこにあったのは、数100台並ぶパソコンだけで、本の並ぶ書架はひとつもなかった。国会図書館は閉架式で、パソコンでデータを調べ、希望の書籍を申し込むというシステムだった。数10分待つと、地下の書庫からその本が運ばれてくるという無味乾燥な図書館だった。

私は子どものころ、読書好きの父親と札幌に行くたびに、丸善に同行した。そこには、頭がクラクラするほど読みたい本がいつも並んでいた。いつも、未知の世界に踏み込む探検気分だった。子供ごころに、丸善というのは特別な存在だった。

父親のことを思いだすとき、いつも札幌の丸善のことを思いだす。


正常と異常

最近、私が当ブログの更新を怠っていることで、心配してくださっている方がいるようだ。転んで頭を打った予後のことで。

この正月、身近なKが私の会話の対応が鈍いと気づき、私の従兄の脳神経外科医Kに連絡をとり、その日のうちに横浜の彼の病院に連れていかれてMRI検査を受けた。かなり注意すべき結果がでた。2週間後にまたMRI検査を受けたが、症状は好転していなかった。

最初に従兄のKからは禁酒例がでたが、これまでの数十年間の飲酒生活をかえりみると、いきなり酒を断つのは逆にからだに悪いと考えて、私はゆるやかな節酒に切りかえた。それでどうなったのかというと、にわかにからだが軽くなり、食欲ががぜん増したのである。手の震えもおさまった。積極的に散歩をするようになり、読書量もよみがえった。つまり、かなり健康な状態にもどった。そして昨日、また2週間ぶりにMRI検査を受けたのだが、やはり症状は好転していなかった。Kは「たいしたことではないし、この状態とつきあっていくことだ」という。なんだか、不安をかかえながらの頭蓋との道行きである。

さて、節酒してわかったことがある。健康なからだになると、ブログを書こうというような気持ちにならないのである。いままで私は当ブログをいつもべろんべろんに酔った状態で書き連ねてきた。それでもあまり誤字脱字はなかったとおもう。でも、そこにアルコールの助けをかりた思考の飛躍はときどきあったとおもう。それがいきなりシラフに近い状態に戻ると、思考も低空思考をつづけて飛躍がないのである。まともではあるが、破たんがない。これはこれで、つまらないものである。だから、ブログを書かなくなった。

でも、これも一過性のものだとおもう。高濃度の酒気帯びライフから健全な酒気帯びライフへの移行。また徐々にブログを復調いたします。


ウナギ

いま私は、酒を禁じられている。ノンアルコールビールと焼酎の薄い水割りを1日に2杯ほどの禁欲生活を送っている。2度目のMRI検査の結果が芳しくなかったからだ。自業自得ともいえるが、やはり空しい。

そうしてわかったのだが、シラフだといくらでも本が読める。毎日、1日中、本が読める。1日中、酔っていたこの数年とは大いにちがう。これはこれで、ケガの功名であった。机のかたわらに本を積みあげ、片っ端から読んでいて、すごい本に当たった。アートディレクターの井上嗣也さんに教えてもらった「ウナギと人間」(ジェイムズ・プロセック)というノンフィクションである。

アメリカ東海岸キャッツキルの川で、大規模かつ強靭な簗(やな)をつくり、毎年ハリケーンの夜に増水した流れを海に向かって大集団で移動するウナギの漁をする世捨て人のような男、NZの先住民マオリがもつ大ウナギへの畏怖と畏敬の念、ミクロネシアのポンペイ島の住民がもつ大ウナギへの呪術的な想い。日本人のウナギの蒲焼への偏愛ともいえる食文化と東大海洋研究所によるその生態への最先端の科学的探求。著者のプロセックはただただウナギへの好奇心から、それらの地を訪ね歩く。南の島国に棲息するウナギは100年近くを生き、体長3メートル、体重50キロほどになるという。その巨大にしてかつ面妖な姿に、太古から人々はさまざまな物語をつむいできた。
学者の書いた学術書ではないから面白い。中学生のころ、イギリス人青年の西アフリカ・カメルーン密林での小動物観察記「積み過ぎた箱舟」(ジェラルド・ダレル)を胸おどらせながら読んだ日々を思いだした。 

大ウナギといえば、私もNZに住んでいたころ、クライストチャーチ近郊の川で鱒釣りをしていて不思議な光景を目にしたことがある。木立の生い茂る牧草地のへりを歩いていると、川幅8メートルほどの流れの対岸でパチャパチャと音がする。木立の枝をはらってみると、長靴を履いた老人が川に1メートルほど張り出した木製の台に立って、小枝の先につけた肉団子のようなものを水面にさし出している。すると、なにか黒っぽいものが水の中からヌウッと出てきてそれを咥えて消えた。そして、またおなじことを繰り返す。何度も、なんども。そこへ雲が流れて午後の木漏れ日があたった。水中に光が射した。まがりくねったその生きものは長さ1メートル半、直径10センチはゆうにあるウナギだった。餌やりが終わったあとも、ウナギは執拗に水面に顔を出し、もっともっとという仕草をした。私は老人に「こんにちは」と挨拶をし、「ウナギ、ずいぶん慣れてますね。どのくらい餌付けをしてるのですか」と訊いた。「うーん、10年くらいかな」「餌は、何ですか」「ドッグフードさ」「彼に名前はあるんですか」「いいや、ウナギはウナギさ。だけど、わしがこの川岸にくる足音でわかるみたいで、その前に水面から顔を出すんだ。待っているんだよ」。なだらかで、静謐なたたずまい。ゆったりとした川の流れる農家の裏庭だった。

「ウナギと人間」は、ここ数年でもっとも読書の醍醐味を味わえるノンフィクションであった。


ダイ・ハード

私は半世紀ほどにおよんで、酒と煙草に浸る生活をつづけてきた。そして、今回の転倒による後頭部の打撲である。MRIによる検査結果を頭部のスキャン映像で見せられて、そろそろ年貢の納めどきと半ば観念した。

内臓のMRI検査の結果は後日ということだった。だが、しかし、私には結果がほぼ予測できた。肝硬変になっているのは、まず間違いがないであろう。肝臓がんの可能性も50パーセントはあるであろう。あれほど、昼夜を問わず飲みつづけてきたのだから。
そして食道がん、肺がんにかかっていても何ら不思議ではない。私が健康診断を受けないのは、そういう宣告をされるのがいやだからである。

そして昨日の夕方、従兄のKから内臓検査の結果が届いたという電話があった。まず結論からいうと肝硬変にはなっていない。アルコールによる肝臓のダメージ数値ガンマGTBは700(5年前に調べたときは800だった、ただし健康な人の数値は20くらい)。しかし肝脂肪の数値は高く、糖尿病の気がある。これは薬を飲むよりも、酒をひかえ、とにかくたくさん歩くことで治すことができる。腎臓をふくめて、他の臓器はきわめて健康。そして、がん発症の予兆があると3つのがん酵素に数値がでるのだが、すべての数値が「ゼロ」。

私は子どものころから、やたら健康だった。そういうカラダをもらったことは両親に感謝である。あとは10日後にもういちどMRI検査を受けて、頭蓋骨の中がどうなっているかだけだ。それも薬を服用しているうちに頭のぼんやりもなくなったし、耳の不調もほとんど治った。

いま深夜、私はニンマリとほくそ笑みながらグラスをかたむけている。


あけましてMRI

3週間ほど前に、酔って転んで頭を打った。左耳が聴こえにくくなったのと頭がぼーっとする症状がつづいたが、そのうち治るだろうとたかをくくっていた。しかし、一向に治る気配がない。

そこで昨日、横浜の方で脳神経外科を開業している従兄のKにコレコレシカジカでと電話をした。すると、すぐ来なさいという。で、病院を訪ねた。あいかわらず浴びるように飲んでいるのかというので、拍車がかかっていると答えた。では、脳と肝臓の両方をMRI検査しようということになった。両方で1時間ほどかかった。

終わってすぐ、モニターに映った脳のスキャン画像を見せられた。思った以上に大変なことになっていた。薬を飲みながら様子をみて、2週間後にもう一度MRI検査をしようという。そこで症状が進行しているか治まる方向に進んでいるのかを判断して、対処するという。

肝臓のMRIデータは採血したサンプルと一緒に知人の肝臓専門医に送って分析してもらうという。肝臓は脳よりもヒドイことになっている気がする。

もう2度と深酒をする気がなくなった。


年越し

今年も終わる。自堕落に、自堕落に。この2週間以上、24時間、飲みっぱなしだった。

酔って転んで、アスファルトに頭を打ったので頭痛がつづき、危ないとおもって風呂にも入らなかった、しかし風呂に入って死ぬ人間はいても、風呂に入らずに死ぬ人間はいないそうだ。

まだ左耳の不調はつづくが、頭痛はほぼ消えた。そろそろ風呂に入ろうかとおもう。鏡を見ると、白い無精髭もかなりなものだ。

この10数日間、私は何をしていたのだろう。何冊かの本を読んだのだけれど、内容はあまりおぼえていない。あとは、ボルチモアのGと久しぶりにスカイプで話したくらいである。あとは、おぼろ。

ということで、年賀状はもうやめました。皆さま、よいお年を。


ガウディなんて知らなかった

昨日のつづきである。

1972年末、私はスペインのバルセロナにいた。23歳の頃である。毎日、路地裏の居酒屋を飲み歩いていた。しかし、ガウディの建築物を見たことがない。

なぜなら、その頃「地球の歩き方」のようなガイドブックがなかったからである。ガウディなんて知らなかった。私が知っていたバルセロナは、「泥棒日記」を書いたジャン・ジュネのバルセロナだけだった。男色家で売春をしながらフランス、スペイン、モロッコへと流れていくジュネの歩く街だった。私は「泥棒日記」の文庫本を片手に、街を歩いた。

よかったとおもう。観光ガイドブックに鼻ずらを引きまわされるような旅ではなかったのだから。いまは、インターネットでもっと詳しい世界中の情報が手に入るのであろう。しかし、それでは旅に出る前に、旅は終わっているのではないだろうか。
旅とは、未知の世界に行くことだ。

過剰な情報とは、不必要なものではないだろうか。未知とは、自分の頭とからだで感じるものではないだろうか。

ある種の人間は、まっ白な地図に踏み出していく。


クリスマス・イヴ

無宗教の私にとって、クリスマスというのは何の感慨もないものである。しかし、ひとつだけ思い出す景色がある。

1972年末のスペイン、バルセロナ。私のヒッピーの旅も2年近くを過ぎ、疲れがでていた。街の中心を走るランブラス通りの近くにあったスペイン広場に面した安酒場で、イスラエルのサーカス団の連中と知りあった。何だかよく知らないうちに意気投合し、彼らのサーカス団に誘われた。これからポルトガルに行き、その後は南米に行くという。

私はその頃、自暴自棄になっていた。紙風船になって、どこかに飛んで行きたい気分だった。だから、「イイヨ」と応えた。しかし話しているうちに、何の仕事をするかということになった。私はサーカスでできるような特殊な能力はない。動物の小屋の掃除しかできないよと言った。そこで、その話はしぼんでいった。それはそうだろう。もともと、無から生まれた話だったのだから。

その数日後のクリスマス・イヴだった。私はバルセロナの中心にある一泊200円の宿に泊まっていたのだが、街じゅうがざわめいていた。そこで外に出てみると、近くの大きな教会の広場で、数100人の人々が歌を歌いながら踊っていた。それは、さんざめくというか、どよめくというようなパッションの集合体だった。熱い風景だった。

なかでも私の目をひいたのは、深紅のドレスを着た圧倒的に美しい黒髪の20歳くらいの女性だった。まさに、カルメンだった。背すじをのばし、からだをくねらせ、ジプシーの女王を演じていた。石畳の上で、真っ赤な薔薇が風に舞っていた。

私は、ビゼーのカルメンをこの目で見た。それが、いまも脳裏にはっきりと残っている。本物のカルメンに会ったのだ。


年末の終末

今年も、あとわずかである。きょう土曜日の夕方は4時くらいから、フライフィッシングの竿工房「マッキーズ」で35年くらいつづく恒例の忘年会。昔は銀座裏の新富町だったが、いまは引っ越した先の本郷。いずれにしても狭い工房で、それぞれが持ちよった酒と肴でワイワイガヤガヤと頬をピンクに染めてたわいもない話で盛りあがるという冬の花見。

いま午後5時を過ぎて、天真爛漫な大バカ釣り好きどもが盛りあがっているのであろうが、私は参加できない。残念、無念、悔しい。

この水曜日の夜。私はコピーライターの先輩である長沢さんとふたりで忘年会をすることになった。昔のように赤坂の古い酒場Gで待ち合わせ。我われにとって、80年代から90年代にかけて足繁く通った日本一のバー。マスターは現在87歳で、いまもしずかに微笑みながら一人で営業されている。長沢さんと私が会うのは半年ぶりなので、積もる話に花が咲く。3時間ほどカクテルやウイスキィーを飲んで、近くのKに河岸を変える。

Kはいま東京でいちばんのバーテンダーK君がやっている酒場だが、我われは調子に乗り過ぎた。ワインだ、シングルモルトウイスキィーだ、カクテルだと朝の5時までグラスを傾けた。高い調子で侃々諤々やりすぎた。どうでもいい、たあいもない話のくりかえしだった。とにかく長っ尻で、店にひどく迷惑をかけた。

青山通りで長沢さんとわかれてタクシーで私は帰宅した。そして車を降りたところで私は後ろにドンところんだ。後頭部をアスファルトにゴンと打った。昼頃に目が覚めると、左耳があまり聴こえなくなっていた。頭がボーッとした状態がつづいている。でも、ボーッとしているのはいつもだ。夢と現(うつつ)の境目がみえない。

身近なKに相談すると、いますぐ脳神経外科でMRI検査を受けなさいという。といっても私は閉所恐怖症なので、ああいうものはきらいだ。生きながら棺桶に入れられるようなものだ。とりあえず、週明けまで様子を見てみようとおもう。いまは酒を飲みながら、ジェフリー・ディヴァーの近作と森茉莉を読んでいる。本を読めるのだから、たぶん大丈夫だとおもう。

ということで、「マッキーズ」の忘年会には出席できなかった。ただ、このまま死んだら恥ずかしいので、とりあえず家にあるエロ雑誌はすべて処分しました。


前の15件 | -