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真空管

私は、1日中よく音楽を聴く。オーディオ装置は、それなりにちゃんとしたものである。30数年ほど前に揃えたものだが、いまもイイを音をだしてくれる。スピーカーは英国の銘機タンノイの旧型スターリング、プリアンプとメインアンプは伝説のラックスのすべて真空管によるもの、CDプレーヤーは英国のARCAMである。アナログのレコードプレーヤー、つまりターンテーブルはやはり英国の銘機ガラード301を使っていたが、アナログレコードを聴かなくなったので手放した。

さて、私が主に聴くのはクラシック音楽だが、これらのオーディオ装置はそれらの音源をみごとに再現してくれる。ピアノはコツンという硬くて重心の低い音までを響かせてくれる。ヴァイオリンの音は羊の腸をよじってつくられた弦を馬の尻尾でつくられた弓でこすりながら弾く音をあざやかに奏でてくれる。弓に塗った松脂の粉が弦をこするときに飛ぶ景色が見えるときもある。もちろん、オーケストラのたっぷりと量感のある響きも、オペラ歌手の喉の濡れた粘膜の震える様子も、眼前にうかぶ。至福のときである。

音には温度も、湿度も、明度も、匂いもある。それらを存分に再現してくれるのは、オーディオの心臓であるアンプだと私はおもう。人間がつくる、人間的な温度のある音楽を再現してくれるのは、やはり真空管のぬくもりのある音だと私はおもう。デジタルの音とは、そこが大いに違う。

深夜、適度に酔いが回ったところでアンプの電源を押す。ゆっくりと、ぼーっと、真空管が赤い光を発する。アンプが温まるまで、すこし待つ。さ、何を聴くか。このしばしの時間がいいのである。

真空管の機器で飛ぶ飛行機、トランジスタやデジタルで飛ぶ飛行機。どちらが墜ちやすいかというと、後者であるそうだ。そりゃそうだろう、鳥だって、蝶だって、アナログで飛んでいるのだから。

そこで、ふとおもう。デジタルって、そんなに進化したものなのだろうかと。ベートーヴェンの弦楽四重奏の第14番はデジタルで聴くよりも、真空管のアンプで聴いた方がいいし、もちろん生の演奏がいいに決まっている。

進化とは退化だ、と古い私はいつもおもってしまう。

「死とは何か?」と問われたアインシュタインは、「モーツァルトを聴けなくなることだ!」と言下に答えたという。いま、真空管のオーディオでモーツァルトの魔笛を聴きながら、私はアインシュタインの答えに深く首肯するのである。

「死とは、モーツァルトを聴けなくなることだ!」


古唐津

昨日は日曜日、氷雨降るなか、昼前から銀座にでかけた。出光美術館で開かれている「古唐津」展覧会の最終日だった。

銀座逍遥のいつものコースとして有楽町交通会館の「どさんこプラザ」に寄り、鰊の糠漬けと三升漬けを購う。ついでに隣りのMUJIをちらりと覗き、4丁目の教文館で自身の本棚を整え、洗う。さて、前日からたのしみにしていた東京いち好きな松屋裏のラーメン屋「共楽」に向かう。頭に穴を開けていたときから、退院したら行くぞッとおもい焦がれていたラーメン屋だ。しかし閉ざされたシャッターには、「店内改装のため、3月18日からしばらく閉店します」の貼り紙。ひざが崩れそうなくらいガッカリした。仕方ない。次善の策として有楽町のラーメン屋でビールを飲み、餃子とラーメンを食べて、雨のなか、丸の内の出光美術館に出向いた。

私は骨董や陶器にさほどの知識はないが、焼き物では唐津が好きである。今回の展覧会は、16世紀後半から17世紀の桃山時代の古唐津。つまり戦国時代に朝鮮半島から陶工ごと渡ってきた垂涎の作ばかりが並べられていた。氷雨のなかでありながら、最終日とあって、展覧会はとてもにぎわっていた。なぜか、女性が多かった。出光コレクションの古唐津、13年ぶりのご開陳。出光はやはり、井戸茶碗とか朝鮮ものがスゴイ。

やわらかで、自在で、えらそうでない。眼福にすぎる焼き物がごろごろ。

大相撲の千秋楽であったので早々と銀座を辞した私だが、稀勢の里が決定戦で優勝するのをテレビで見ることができてよかった。大番狂わせだった。

相撲を見ながら糠にしんで三平汁をつくり、朝鮮の粉ひきもどきの徳利で日本酒に燗をつけ、現代ものだが唐津の皮鯨のぐい吞みでそれをいただきました。


この国の構造

大阪の森友学園、籠池理事長と安倍首相、そしてそれぞれの女房のキャクラター合戦が面白すぎる。

もともとは安倍の女房、昭惠が森友学園の名誉校長に就き、そこの小学校予定地の国有地が9割引きくらいで売られていたことが発覚し、それが問題の発端となった。そもそもはかんたんな事件で、きょくたんな愛国思想をもつ学園長夫妻がいて、きょくたんな愛国思想をもつ首相夫妻や稲田朋美防衛相がその思想に共鳴し、国有地の売買権をもつ財務省とその管轄下の大阪府の役人を動かしたというだけの話である。

話を面白くしたのは籠池という理事長と首相夫人昭惠のキャラクターである。籠池というのは10数年前にマンションの耐震強度偽装事件で世間を騒がしたヒューザー社長の小島とかいう濃いキャラを思いおこさせる。蛙の面にションベンというところが。もうひとり、蛙の面にションベンのキャラが安倍昭惠である。このごに及んで、「なんで私が注目されるのでしょうね」とヘラヘラ笑っている。

なぜ彼女があそこまで能天気なのかというと、それは彼女の出自と生い立ちにあるのかもしれない。昭惠は森永製菓創業家5代目の娘であり、聖心女学院から立教大学を卒業して電通に入社している。すべてコネ入学であり、コネ入社であり、嫁に行くまでの華麗なる経歴づくりである。電通時代は、宴会部長として飲み会を大いにもりあげていたらしい。それが彼女の仕事であった。そのころに安倍晋三を紹介されて結婚している。子どもはできなかった。

ここで正直にいうが、電通社員の大半はコネ入社である。社員の多くはこの国の政界や経済界に影響力をもっている者たちのご子息たちである。私も仕事で電通の社員たちとたくさん会ったが、優秀なのは100人にひとりいるかいないかである。電通にとって、社員は別に優秀でなくてもいいのである。日本社会の既得権益を回すのが会社にとっての仕事なのだから、既得権につながる社員がいるだけでいいのである。

森友学園の国有地売却問題だって、早い話がコネであり、クチキキであり、政治力である。そして教育勅語の好きな類友コネクション。

今後は、籠池のバックについたノンフィクション作家の菅野完という人物がカギを握るような気がします。いい意味でも、悪い意味でも。


ほッ

きょう、入院していた横浜の病院で、退院後3週間ぶりの再検査を受けた。執刀の前に、硬膜下血種手術の病状再発の可能性は約10%といわれていた。また出血して脳を圧迫する可能性である。

CT検査の結果は、ほぼ治っていた。頭蓋骨内部のモニター画像を見せられたが、血液の影はすこし残っているものの、これはそのうち自然に消えるでしょうとのこと。念のため1か月後にもう一度CTスキャンを撮り、そこで完治していたら薬の服用もやめて、治療を終えましょうと主治医にいわれた。

ほッとした。入院中に、頭や口からチューブを出して点滴につながれ、意識もなくベッドに横たわっている患者をずいぶん見た。ああなるのはイヤだった。(脳神経外科の病室は、異常事態にすぐ気づくようにドアは常にひらいている状態が多い)

今回は、まわりの人々にずいぶんと迷惑とご心配をかけた。酔って転んでの末の自業自得とはいえ、ただただ反省あるのみ。今後は、糖尿病の治療にまじめに努めたいとおもいます。従兄のKにいわせると、硬膜下血種なんて軽い交通事故みたいなもので、糖尿病の方がはるかに怖いよということである。

あと1週間ほどで、桜の開花である。今年は、良寛の「散る桜 残る桜も 散る桜」が
いままでにもまして身にしみることでしょう。


シャバダバダ

先週の土曜日の昼、横浜の病院を退院した。帰宅してすぐ、10日ぶりにビールを飲んだが思ったほどの感動はなかった。夕方、近くの神社に散歩がてら出かけた。境内に梅の木が数本、紅白の花を咲かせていた。その甘酸っぱい香りをかぎながら、「あぁ、生きている」と実感した。

入院中はあわてて持ちこんだノンフィクションや海外ミステリーを数冊読んだが、どれもいまいちだった。それで、見舞いに来るというHとMに夏目漱石の「吾輩は猫である」(新潮文庫)を所望した。私はこの歳まで「猫」を読んでいないことを気にしていたのである。そして読んで、驚いた。とてつもない教養小説なのであった。社会を風刺した噺だということは知っていたが、和漢洋のインテリジェンスを注いだ漱石の処女作であり、そこに彼がすべての知識を遊びごころとともにはき出したものだった。真面目に読むと、難解といってもいい。とにかく現代版は脚注だらけである。当時、漱石の本の初版は2000部ほどだったというが、むべなるかな。とても、大衆が読みこなせるものではない。旧制高校卒以上のインテリしか相手にしていない。でも、それ以降の職業作家になってから書いた「坊ちゃん」や「こころ」「それから」などはもっとはるかに読みやすい。私のいちばん好きな「草枕」もしかり。処女作の「猫」がその難解さがゆえに一部高等遊民だけに受けたことを漱石は卑下したのかもしれない。だって、食うために働いて生きるほどツマラナイ人生はない。そのてん猫は気楽なもんだ、という本音を書きつらねたのだから。
ともあれ、「猫」は入院でもしていなければ読みこなせない小説であった。そしてやはり読むべき、こころに残る名作であった。

火曜日の朝、宅急便が届いた。昔、京都に住んでいたころの友人、バッグデザイナーH氏からのものだった。30年ほど前、私は彼にアウトドア用のショルダーバッグを作ってもらった。英国製の「ブレディ」というバッグを基調としたモスグリーンのものだった。私はそれを毎日、どこに行くにも携えて出かけた。スコットランドで、開高さんに「キミ、ええバッグ持ってるな」ともいわれた。しかし、30年以上も過ぎ、さすがにそれもくたくたにヘタッてきて、代わりの似たようなバッグを使っていた。だが、それも数年でヘタッてきた。そこで昨年の11月頃に、H氏に昔と同じものを作ってほしいと電話をした。「もうあのバッグの型紙もあらへんけど、昔のがあるんなら、送って。そのうち気が向いたら作るわ」
そして火曜日、新しいバッグが送られてきた。新作は生地が黒で、ふちどりの皮とショルダーベルトが焦げ茶。成熟した白髪のオヤジにぴったりのシブイ出来栄えである。あぁ、うれしい。完璧なデザインのショルダーバッグ。

バッグ・ツゥ・ザ・フューチャーなのだ。