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道を説く

「やは肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや 道を説く君 」

与謝野晶子のこの詩を私はことあるごとにおもいだす。新聞を読んでいて、テレビを見ていて、道を歩いていて、いままで何千回おもいだしたことであろうか。とくに、後半の「さびしからずや 道を説く君 」のくだりを。先ほども、下町に住む友人Sと電話で話していておもいだした。

Sがいうには、倉本聰の鳴り物入りのテレビドラマがはじまったので女房と見たのだが、ほんとうにくだらないんだよね。そう思うこっちが、まちがっているんだろうか。

私は答えた。そりゃあそうだよ。倉本聰はどこかでかん違いした人間だよ。人生とは何か。人の生き方とは何か。地球の環境問題とは何か。そういうことをマジで話したり、書いたりする人間だよ。まともな人間なら、恥かしくてできないでしょう。でも、そういう人間だから、「北の国から」みたいな人間「臭い」ドラマを書けたのでしょう。

もう20数年ほど前であろうか。私は北海道に仕事で行ったおり、後輩のYが倉本聰の「富良野塾」に入っていたので、3人ほどで一升瓶を2本ほどもって訪ねた。富良野郊外の山深い森にその塾はあった。そこの集会場でYと我われは酒杯を重ねたのだが、そこで目にした光景はすこし変わったものだった。純粋な、透きとおった眼をした青年たちが行きかっているのだが、私には彼らが自分の意志以上のものに自分自身をゆだねているように見えた。つまり、オウムのサティアン的なものを感じた。

それ以降、私は倉本聰の立派な人生観みたいなものを見聞するたびに違和感を感じるようになった。

「やは肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや 道を説く君 」

「サラダ記念日」俵万智の、与謝野晶子「みだれ髪」の解釈はこうである。

「燃える肌を抱くこともなく 人生を語り続けて寂しくないの」