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タイの味

タイ料理を初めて食べたのは、1983年のニューヨークだった。たしか、グリニッチビレッジのあたりだったとおもう。激辛のトムヤム・クンスープに衝撃をうけた。真っ赤なスープに小海老が浮かび、レモングラスとパクチーの香味が独特だった。やみつきになり、東京でもタイレストランを探してはいただいた。翌年には、わざわざタイまでトムヤム・クンを食べに行ったほどだ。

一昨日、Gがタイ料理を食べたいというので、食通のN君に「いい店を知らないか」と訊ねた。というのも、タイ料理屋というのはどこも辛いだけで、同じような味がすると感じていたからだ。N君がいうには「ぼくは行ったことがないですが、渋谷にちょっとシブイ店があるそうですよ。パッポンキッチンという店で、ミシュランのビブグルマン(コストパフォーマンスのいい店)に選ばれたそうです」とおしえてくれた。

さっそく予約し、午後7時半、Gとその店を訪れた。東急本店の右奥を進み、2度曲がったところにその店はあった。カウンターに小さなテーブルがひとつ。10人も入れば満席という小さな店である。タイ人の中年夫婦と日本人の若いウェートレスがひとり。賑わっている。店に入ってアレッとおもったのは、タイ料理屋につきものの香菜(パクチー)の香りがしないのである。そしてもっと驚いたのは、メニューにトムヤム・クンがないのである。インドシナ半島というのは、アンナン山脈の東側にあるベトナムは中国文化圏であり洗練された料理が多い。山脈の西側はインド文化圏であり、料理は辛く、踊りは首を左右に振るものが多い。タイはインド文化圏であり、もちろん激辛料理の国である。それにしてもトムヤム・クンがメニューにないタイ料理屋というのは、日本中でここだけではないだろうか。

しかしこの店は、何を食べてもあっさりと優しい味であった。たぶんタイにも、中国文化圏の人々がいるのであろう。だがご夫婦のお顔はまったくタイ人のそれであり、つねに柔らかく笑い、微笑みの国の人であった。

おいしい料理をいただき、Gと赤坂に移動。グリニッチとKokageでカクテルとシングルモルトウィスキーを飲んで帰宅。爆睡。

ベートーヴェン弦楽四重奏第14番

むかし本で読んだ話ですが、フランスの作家マルセル・プルーストが晩年、当時ヨーロッパ最高といわれたカペー四重奏団をとつぜん深夜の自宅によんで、ベートーヴェンのこの弦楽四重奏を演奏してもらったそうです。
もう体は弱り、ベッドに横たわったままのプルーストは、そのあくまでも贅肉を削いだベートーヴェンの精神そのもののように透明な旋律に身をゆだねていました。薄暗い彼の部屋の床には、延々と書き継いだ「失われた時を求めて」の原稿が乱雑に散らばっていたそうです。

その小説は、いまや20世紀文学を代表するといわれる大長編です(フランス語原著にして3000ページ以上)。この終わりなき大河のような小説を書くことに半生を捧げた小説家が、晩年の深夜に、生演奏でひとり聴きたかった音楽がこの曲だったということに私は深く想いをいたします。

当時も、ヨーロッパには巨万の富を持つ人間はあまたいたでありましょう。しかし、深夜に超一流の四重奏団を自宅によぶという、ある意味でとんでもなく乱暴なことを敢行した人間はどれほどいたでしょう。そのような真の贅沢を味わった人間が何人いたでしょうか。

この曲は、ベートーヴェンが最晩年に作曲したものです。この大作曲家は、ピアノソナタ第111番にしても、交響曲第9番にしても、死ぬ間際にとてつもない作品を書いています。人類すべてのための遺産とも呼べる音楽をです。耳が聴こえなくなり、余命幾ばくとないということを感じてから、音楽世界のエベレストに爪を立てながら挑み、這いつくばってよじ登りました。そして、その未踏の頂きに辿りついたのです。

私は淋しいとき、切ないとき、孤独なとき、この曲をよく聴きます。そして、そこにあるきわめて人間的な祈りのようなものにこころを打たれるのです。

プルーストお気に入りのカペー四重奏団による、SP原盤から復刻したモノラルのCDも東芝EMIから出ています。すばらしい演奏ですが、ノイズ音の入った3枚組CDです。それが気にならなければ、お薦めです。

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このエッセイは、知人のウェブサイトにたのまれて10本ほど書いたうちの1本です。
ご興味のある方は以下へ↓

https://www.50agingcare.jp/クラシック便り/

小説は事実より奇なり

今週は、海外と国内の傑作ミステリー小説に当たった。これら2作はどちらも実際の事件をもとにしたフィクションだが、まれにみる面白さであった。

まずスェーデンのアンデシュ・ルースルンドとステファン・トゥンベリの共著「熊と踊れ」。軍の武器庫から大量の武器を盗み、それを使って連続銀行強盗を働く物語だが、荒っぽい話のようでディテールや心理描写がじつによく描かれている。1990年代初期に現実にあった事件をもとに書かれた小説だそうだが、ひさしぶりにぐいぐいと引き込まれる本だった。活字のうしろに、鉛色をした北欧の冷気が漂っている。

そして吉田修一の「犯罪小説集」。これもここ10数年間に日本で起きた事件を下敷きにした、まったくのフィクション短篇集である。どの話も読みすすむうちに、あぁあの事件かと思いあたる仕組みになっている。だから、読み手は妙な既視感とリアリティを感じる。活字のうしろに、どんよりとした島国の湿気が漂っている。

いま日本の小説家でもっともうまい書き手は女性作家では桜木柴乃だが、男性作家では吉田修一であろうかとおもわせる巧みさであった。

2作とも心底まんぞくのいく読みごたえであった。こう暑いと、エアコンをつけた部屋でミステリー小説を読むにかぎる。

ほっとくということ

イチジク、花をつけずに実をつけるので、日本では無花果という字をあてられた。13世紀ころ、ペルシャからインド、中国を経て日本に伝わったとされている。

昨年の春、ベランダに大きな鉢を置き、そこにイチジクの木を植えた。高さは1メートルくらいだった。今年は1メートル50センチくらいになった。そして、もう30個くらいの実をつけている。

しかし、この3日くらい前からである。5裂の大きな葉がばらばらと落ちはじめた。濃い緑の葉がいっきに黄色くなり、散るのである。もう半分以上、落葉した。私は散った葉を片づけながら、なぜいきなりこうなるのだろうと不思議だった。

そして先ほど、ベランダにしばらく立って考えた。水も栄養もほどよくあたえている。まだ小さな木だが、直径3センチくらいの実がどんどんできている。それを見ながら、ハッと思うところがあった。そうか、これは母性愛なのだ。次から次に実が生まれるので、母なるイチジクの木は葉にまわる栄養を子どもの果実にまわしてるのだ。その結果、太陽の光から栄養をとるための葉っぱを犠牲にしているのだ。これは子どもに愛情を与える母の本能であろう。

さて、では私はどうしたらいいのだろうか。でも考えると、イチジクだってもとは野生の果実であろう。原産地は自然条件のきびしい中東である。ほっとくのがイチバンいいのであろう。そのうちまた葉をつけながら、実を大きくしていくとおもう。夏の盛り、それをもぎ、冷蔵庫で冷やして、私はありがたくガブリといただく。



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