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九十九里への旅(3)

枕が柔らかくて眠れなかったというと、K君が硬い枕を用意してくれた。おかげで、2日目は9時間、熟睡することができた。

昨夜をふり返ると、K君とGと私で、日本の戦争責任について飲みながらいつしか侃々諤々の議論になっていた。結論をいうと、日本の軍部が行ったことは徹底的に悪いが、自分たちもあの時代に生きていたら、やはり軍国主義に染まって、嬉々としてアジアで殺戮をしていたであろうということだ。

そしてGと私がもっとも強調したのは、日本はアジアの国々に対して「ちゃんと謝罪していない」ということだった。悪いことをしたことを謝るのは恥ずかしいことではないのである。謝らないことが、恥ずかしいことなのである。たとえば、私は1973年にスペインの安酒場で、若い旅人8人ほどと飲んだことがある。みんな、どこから来たかと述べあった。そのとき、「ドイツから」と答えた男と「南アフリカから」と答えた男に、私は「フン」という対応をした。当時、まだドイツのホロコーストでの600万人のユダヤ人虐殺の記憶は生なましかったし、南アフリカのアパルトヘイト問題もリアルな現実だった。

しかしいま、ドイツはホロコースの戦争犯罪を全面的に謝罪することで世界で認められる国になった。そのことは、小学校から徹底的に教育されている。南アフリカはアパルトヘイトを全廃し、白人と黒人の融和政策をとっている。それらの国は国際的に認められるようになった。

翻って、日本は戦時中に行った戦争犯罪に対して、どの国にもはっきりと謝罪していない。義務教育の教科書でも、日本の戦争犯罪を正面から教えていない。Gは日本の学校に行ったことがないのだが、それらのことをたぶんインターネットで知ったのであろう。子どもたちの教育現場でそのことを教えていないことがもっとも罪であるという。日本は原爆を落とされたという戦争の被害国である。しかし、アジアで殺戮をくり返した戦争の加害国でもあるということをまず認めるべきであるというのである。

さて、九十九里の旅の3日目、朝食に生ホルモンとキャベツの味噌汁が出てきた、これには驚いた。お澄ましのように上品である。創作料理であろうが、うますぎる。やはり、料理はクリエイティブである。

最後に、庭に建てられたK君の陶芸工房を見せてもらった。本格的なものだった。我われはすべてに満足し、帰途のバスに乗った。うつらうつらしているうちに、東京に着いていた。

きょうは敗戦記念日、そして1昨日、2歳上の友人Sさんがすい臓がんで亡くなった。


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九十九里への旅(2)

さて、九十九里の2日目である。私はすでにヘトヘトに疲れていた。というのも、久しぶりにK君に会ったという高揚感もあって飲み過ぎていた。そして、あたえられた寝室の枕がふわふわの柔らかいスポンジのものだった。何度寝返っても寝つかれず、けっきょく私はリビングで朝までひとりで酒を飲んでいた。私は、固い枕でなくては眠れないのだ。

徹夜で飲んで、人生最高のシジミの味噌汁付きの朝食をいただき(手造り味噌の発酵具合が国宝級)。1時間だけ眠らせてもらい、昼からは予定どうりのハゼ釣りである。行ってみて驚いたが、ハゼ釣りというのは海の釣りではなく、川と海の水の交わる汽水域での釣りなのである。だから、見た目の景色は広い川の釣りになる。ルアー竿の糸の先におもりを付けて、その先の小さな針にイソメというミミズのような生餌をつけて、川にぶん投げる。そして、しばし待つ。たまに、ぷるぷるという小さな当たりがくる。それをゆっくりとリールで巻くという、のんびりとした釣りである。

Gは、スポーツというのを一切やらない。ランニングと森の中のウォーキングと、釣りだけである。だから、今回の釣りをずいぶんと楽しんだようだ。もう帰ろうといっても、なかなか竿をたたまなかった。「人世で、いちばん楽しい釣りだったよ」という。

釣果は3人で、ハゼ10匹、コチ2匹。そして魚市場で見つけたナガラミ、背黒イワシ、本マグロの赤身をK君が手早く食卓に出してくれた。そのあとに、ハゼ、コチ、白ナス、シイタケ、ゴーヤを目の前で天ぷらとから揚げにしてくれた。それにしても九十九里のハゼの天ぷら、それはそれはふわふわと身が柔らかくて、繊細な味わい。同じ江戸前の白身の天ぷらでも、キスより上等だとおもった。苦労して釣ったかいがありました。

すべて絶品、絶妙。K君に感謝多謝。


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九十九里への旅(1)

金曜日の午後5時、千葉九十九里浜の東金駅に、電車を2時間乗り継いでGと到着。友人のK君が出迎えてくれる。彼はこの地に移り住んで5年。写真家であり、陶芸家でもあるが、プロはだしの料理人でもある。初めて訪ねた家はほどよく趣味が良く、清浄な空気が漂っている。白い猫が一匹。名前はパル、人なっこい。捨て猫だったらしい。居心地が良いリビングでビールを飲んでいると、キッチンから次々と料理が運ばれてくる。

まずお通しとして地元産の目刺し、そして万願寺唐辛子。このあたりで、大分むぎ焼酎
二階堂のオンザロックスに切りかえる。そこにポテトサラダと自家製ローストビーフが
登場。ローズマリーとニンニクの香りがほのかにする。そして庭のバーベキューセットの炭火で焼いた牛タン、ラムチョップステーキ、レバー、地元産の生ホルモンという至福の肉攻めであった。とにかく初日は、肉の日だとのこと。

庭に見事なソテツの木があった。5本は横に3メートル、1本は縦に3メートルの幹をのばしていた。K君は東京にいたときよりも、縦横に10メートルくらい大きくのびやかに暮らしていた。

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てふてふ

きょうは、どんよりとした蒸し暑い夏の日だが、ベランダにオレンジ色の蝶が一匹、数時間も行ったり来たりしている。

それで久しぶりに高校時代に愛読したジュール・ルナールの「博物誌」を思いだした。


  二つ折りの恋文が 花の番地をさがしている



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熱中症


先週の水曜日から金曜日にかけて、家でずーっと飲んでいた。ほとんど食事をせず、ベッドで本を読んでいた。

さて金曜日の午前3時過ぎ、がんがん飲んで、エアコンを切り、網戸にして寝た。そんなに温度は高くないけれど、やたら湿度の高い夜だった。 数時間後、全身、汗まみれで目が覚めた。Tシャツを着替えて、水をがぶがぶ飲み、また寝るのだがまた汗まみれ。シーツも掛けタオルも汗でびっしょり。それをくり返して昼前に起きたのだが、足もとがおぼつかない。壁づたいに歩くのがやっと。脱水症だと考え、とにかく水を飲んだ。1升瓶に1本は飲んだ。しかし、しばらくするとそれをすべて吐いてしまった。食事をしていないので、すべて胃液。あとはベッドに伏せて、やり過ごすしかない。手負いの熊である。しかし夜、なにか食べなくてはと思い、温泉卵と山芋のすりおろしたものを無理やり口に流しこむ。だが10分後、それもすべて吐いてしまった。

翌日は、少量のお粥を2回にわけて食べた。その翌日は、焼肉弁当を買ってきて半分ほどを食べた。徐々に体力が回復してきて、昨日は塩鮭、納豆、キムチ、味噌汁などのいつもの食事ができた。最近はほぼ1日1食だが、これでずいぶんと元気になった。

こういうことは、いままでも年に数回あったし、たんなる飲みすぎだろうと思っていた。しかし、昨日の朝日新聞の朝刊で「コータリンは要介護5」というコラムを読んで驚いた。熱中症になった人の体験談が紹介されているのだが、その症状が私とほとんど同じなのである。つまり、私は熱中症にかかっていたのである。私はほとんど家から出ないので、熱中症というのは関係ないと思っていた。

そして、医者のアドバイスも載っている。「熱中症の予防はまず、ちゃんと食事をとり、寝ることです」。そして大量の水を飲むと血中の塩分濃度が足りなくなり、水中毒になり、むしろ逆効果になる。スポーツドリンクか経口補水液を飲むのががイイ。

私、さっそく、ポカリスエットを買ってきました。


ロックって、何だ?


いま酔って目が醒めると、深夜のラジオからミック・ジャガーのバラードが流れている。それで、思い出したことがある。

5年くらい前だろうか。友人が数人、私の陋屋に遊びにきた。そのうちのふたりが、猛烈なローリング・ストーンズのファンだった。

そのひとりが言った。「こないだ、後楽園に、ストーンズのコンサートに行ったんですよ。そしたら、入り口に並んでいた前の男が尻のポケットからチケットを落としたんですよ。オレは拾って、その男に渡そうとおもったんですけどね、そういうやさしさってロックでないでしょ。オレ、その落ちたチケットを無視しましたよ」

私は応えた。「そのチケットを拾って渡してあげるのが、ロックだろう」

モーツァルトだって、ベートーヴェンだって、マーラーだって、ショスタコーヴッチだって、思いっきりロックだ。もちろん、ジョン・レノンも。

気がついたら、当ブログも、700回目を迎えていました。いつも、ご愛読ありがとうございます。

九十九里

来月、8月の半ばに、私はGと千葉の九十九里に旅に出る。友人のK君が、そこに棲み、焼き釜をかまえているのである。彼の本業は写真家だが、なかなかの陶芸家でもある。

そのK君がいうには、九十九里はとにかく海の幸がうまい、とくにいまはハゼがべらぼうにうまいという。天ぷらにしたら、ひっくり返るうまさだという。それが、近くの浜でがんがん釣れるのだという。釣り竿は4本用意してあるという。

そこまで言われたら、行かずにはいかないでしょう。

東京駅の八重洲口からバスで1時間ちょっとだという。電車でも、そんなもんだという。

行ってきます。釣ってきます。飲んできます。2泊3日の小さな旅。ワクワクしてます。

私は、とにかく湘南嫌いの、房総好きなのだ。

少年時代の夢といえば、昆虫学者になりたかったことである。青年時代の夢といえば、女風呂を覗きたかったことである。どちらも、かなわなかった。

夢というのは、夢であって、現(うつつ)ではないのである。

きのうも、妙な夢を見た。ヤマモトという、昔ちょっとだけ仕事をしたことのある男とその女房(会ったことがない)と一枚の布団に寝ているのである。「いやだ、いやだ」とおもいながら、ねばっこい寝汗をかきながら目が覚めた。なんで、忘れていたどうでもいい男のことが夢に出てくるのだろう。去年の年末に脳ミソをやられて、その記憶の奥からそういうどうでもいいことが出てくるのだろうか。ひどく、寝起きが悪かった。いまおもうと、彼はただ広告界で有名になりたくて、私にすり寄ってきただけの男だった。

かとおもえば、私には素晴らしい夢を見た思い出が多すぎる。
子ども時代は北海道の野山を駆けまわり、毎日が天国だった。20代はヒッピーでさまざまな国を漂っていた。30歳手前で手に職を得てそれなりに面白く生きてきた。素晴らしい女性たちにも出会った。NZで、凄い鱒釣りを体験した。5ポンドオーバーの鱒を釣りまくった。ずいぶんと恵まれた人生だったとおもう。

もう、あした、死んでもいいです。


タイの味

タイ料理を初めて食べたのは、1983年のニューヨークだった。たしか、グリニッチビレッジのあたりだったとおもう。激辛のトムヤム・クンスープに衝撃をうけた。真っ赤なスープに小海老が浮かび、レモングラスとパクチーの香味が独特だった。やみつきになり、東京でもタイレストランを探してはいただいた。翌年には、わざわざタイまでトムヤム・クンを食べに行ったほどだ。

一昨日、Gがタイ料理を食べたいというので、食通のN君に「いい店を知らないか」と訊ねた。というのも、タイ料理屋というのはどこも辛いだけで、同じような味がすると感じていたからだ。N君がいうには「ぼくは行ったことがないですが、渋谷にちょっとシブイ店があるそうですよ。パッポンキッチンという店で、ミシュランのビブグルマン(コストパフォーマンスのいい店)に選ばれたそうです」とおしえてくれた。

さっそく予約し、午後7時半、Gとその店を訪れた。東急本店の右奥を進み、2度曲がったところにその店はあった。カウンターに小さなテーブルがひとつ。10人も入れば満席という小さな店である。タイ人の中年夫婦と日本人の若いウェートレスがひとり。賑わっている。店に入ってアレッとおもったのは、タイ料理屋につきものの香菜(パクチー)の香りがしないのである。そしてもっと驚いたのは、メニューにトムヤム・クンがないのである。インドシナ半島というのは、アンナン山脈の東側にあるベトナムは中国文化圏であり洗練された料理が多い。山脈の西側はインド文化圏であり、料理は辛く、踊りは首を左右に振るものが多い。タイはインド文化圏であり、もちろん激辛料理の国である。それにしてもトムヤム・クンがメニューにないタイ料理屋というのは、日本中でここだけではないだろうか。

しかしこの店は、何を食べてもあっさりと優しい味であった。たぶんタイにも、中国文化圏の人々がいるのであろう。だがご夫婦のお顔はまったくタイ人のそれであり、つねに柔らかく笑い、微笑みの国の人であった。

おいしい料理をいただき、Gと赤坂に移動。グリニッチとKokageでカクテルとシングルモルトウィスキーを飲んで帰宅。爆睡。

ベートーヴェン弦楽四重奏第14番

むかし本で読んだ話ですが、フランスの作家マルセル・プルーストが晩年、当時ヨーロッパ最高といわれたカペー四重奏団をとつぜん深夜の自宅によんで、ベートーヴェンのこの弦楽四重奏を演奏してもらったそうです。
もう体は弱り、ベッドに横たわったままのプルーストは、そのあくまでも贅肉を削いだベートーヴェンの精神そのもののように透明な旋律に身をゆだねていました。薄暗い彼の部屋の床には、延々と書き継いだ「失われた時を求めて」の原稿が乱雑に散らばっていたそうです。

その小説は、いまや20世紀文学を代表するといわれる大長編です(フランス語原著にして3000ページ以上)。この終わりなき大河のような小説を書くことに半生を捧げた小説家が、晩年の深夜に、生演奏でひとり聴きたかった音楽がこの曲だったということに私は深く想いをいたします。

当時も、ヨーロッパには巨万の富を持つ人間はあまたいたでありましょう。しかし、深夜に超一流の四重奏団を自宅によぶという、ある意味でとんでもなく乱暴なことを敢行した人間はどれほどいたでしょう。そのような真の贅沢を味わった人間が何人いたでしょうか。

この曲は、ベートーヴェンが最晩年に作曲したものです。この大作曲家は、ピアノソナタ第111番にしても、交響曲第9番にしても、死ぬ間際にとてつもない作品を書いています。人類すべてのための遺産とも呼べる音楽をです。耳が聴こえなくなり、余命幾ばくとないということを感じてから、音楽世界のエベレストに爪を立てながら挑み、這いつくばってよじ登りました。そして、その未踏の頂きに辿りついたのです。

私は淋しいとき、切ないとき、孤独なとき、この曲をよく聴きます。そして、そこにあるきわめて人間的な祈りのようなものにこころを打たれるのです。

プルーストお気に入りのカペー四重奏団による、SP原盤から復刻したモノラルのCDも東芝EMIから出ています。すばらしい演奏ですが、ノイズ音の入った3枚組CDです。それが気にならなければ、お薦めです。

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このエッセイは、知人のウェブサイトにたのまれて10本ほど書いたうちの1本です。
ご興味のある方は以下へ↓

https://www.50agingcare.jp/クラシック便り/

小説は事実より奇なり

今週は、海外と国内の傑作ミステリー小説に当たった。これら2作はどちらも実際の事件をもとにしたフィクションだが、まれにみる面白さであった。

まずスェーデンのアンデシュ・ルースルンドとステファン・トゥンベリの共著「熊と踊れ」。軍の武器庫から大量の武器を盗み、それを使って連続銀行強盗を働く物語だが、荒っぽい話のようでディテールや心理描写がじつによく描かれている。1990年代初期に現実にあった事件をもとに書かれた小説だそうだが、ひさしぶりにぐいぐいと引き込まれる本だった。活字のうしろに、鉛色をした北欧の冷気が漂っている。

そして吉田修一の「犯罪小説集」。これもここ10数年間に日本で起きた事件を下敷きにした、まったくのフィクション短篇集である。どの話も読みすすむうちに、あぁあの事件かと思いあたる仕組みになっている。だから、読み手は妙な既視感とリアリティを感じる。活字のうしろに、どんよりとした島国の湿気が漂っている。

いま日本の小説家でもっともうまい書き手は女性作家では桜木柴乃だが、男性作家では吉田修一であろうかとおもわせる巧みさであった。

2作とも心底まんぞくのいく読みごたえであった。こう暑いと、エアコンをつけた部屋でミステリー小説を読むにかぎる。

ほっとくということ

イチジク、花をつけずに実をつけるので、日本では無花果という字をあてられた。13世紀ころ、ペルシャからインド、中国を経て日本に伝わったとされている。

昨年の春、ベランダに大きな鉢を置き、そこにイチジクの木を植えた。高さは1メートルくらいだった。今年は1メートル50センチくらいになった。そして、もう30個くらいの実をつけている。

しかし、この3日くらい前からである。5裂の大きな葉がばらばらと落ちはじめた。濃い緑の葉がいっきに黄色くなり、散るのである。もう半分以上、落葉した。私は散った葉を片づけながら、なぜいきなりこうなるのだろうと不思議だった。

そして先ほど、ベランダにしばらく立って考えた。水も栄養もほどよくあたえている。まだ小さな木だが、直径3センチくらいの実がどんどんできている。それを見ながら、ハッと思うところがあった。そうか、これは母性愛なのだ。次から次に実が生まれるので、母なるイチジクの木は葉にまわる栄養を子どもの果実にまわしてるのだ。その結果、太陽の光から栄養をとるための葉っぱを犠牲にしているのだ。これは子どもに愛情を与える母の本能であろう。

さて、では私はどうしたらいいのだろうか。でも考えると、イチジクだってもとは野生の果実であろう。原産地は自然条件のきびしい中東である。ほっとくのがイチバンいいのであろう。そのうちまた葉をつけながら、実を大きくしていくとおもう。夏の盛り、それをもぎ、冷蔵庫で冷やして、私はありがたくガブリといただく。


大工のウィリー

どうしているかな、とときどき思いだす。ニュージーランドに住んでいたとき、よく一緒に釣りに行った。ワハハッと笑いながら、ずいぶんビールとワインを飲んだ。とにかく、ワイルドな男だった。釣りも、狩猟も、本物だった。映画「クロコダイル・ダンディ」みたいな男だった。彼と会わなかったら、私はこんなにニュージーランドを好きにならなかったであろう。もう、彼とは何年も連絡をとっていない。連絡をとらなくても、おたがいに強いきずなをもっていると知っているからである。

大工のウィリー。鷲鼻の陽気な岩のような体をもった男。彼はスコットランドから少年時代に移民船でNZに移住し、中学校を出てから大工になり、ダム工事などの仕事につき、その後は沖中師などの荒っぽい仕事をつづけてきた。我われは、50歳のころに出会った。彼は沖中師をやっていたので、日本の船乗りに非常に悪い印象をもっていた。日本人はとにかく煙草を吸いながら、NZ人にえらそうに指示し、ユーモアの一切通じない人種だとおもっていた。

弁護士のクリスの紹介で知りあい、初めて3人で釣りに行ったとき、車の中でウィリーは日本人の悪口を言いつのっていた。クリスは「おいおい、後ろの席に日本人がいるんだぞ」「日本人に英語はわからないさ」。それが釣りをしたら、我われは親友になっていた。日本人なのに、冗談をいう私を面白いとおもったらしい。日本人にも、ユーモアがわかる人間がいるのかと。私は英語がヘタクソだが、冗談はいえる。

そこから、我われは親友になった。なんども、なんども一緒に釣りをした。大きな鱒を釣りあげ、大笑いした。釣り小屋で、大酒をくらった。

私が日本に帰ると知ったとき、その広い背中をガックリと落とし、とぼとぼと帰っていった姿がいまも目に浮かぶ。

友人は少なくていい、本当の友人が何人かいてくれたらいい。


数日前、Gがアメリカ東海岸のボルチモアから1年ぶりに帰ってきた。ポニーテールに壊れた眼鏡、肩にエレキギター。ま、ヒッピーの姿である。先週、23歳になった。ニューヨークで友人たちと、飲んで吸っての乱ちき誕生日パーティをやったらしい。

きょう、恵比寿の駅ビルで新しい眼鏡をつくり、そのあと近くの焼き鳥屋「田吾作」で飲む。サラリーマンで混みあうきわめて日本的な大衆居酒屋である。Gにいわせると、アメリカの友人が日本に来たら、ぜひこの店につれてきたいという。これこそ日本だ、という大衆的な店である。

彼はニューヨーク州立大学のパーチェスカレッジを卒業した後、ボルチモアのジョンズ
ホプキンス大学の大学院ピーボディカレッジに進み、この5月に1年目を終えた。きくと、かなり厳しい1年間だったらしい。なにしろ、学内にノーベル賞を受けた教授が20人以上いる大学だ。けれど、天才的な頭脳をもつ英国人教授に認められて充実したときを過ごしたという。1年後は英国の大学でドクターコースにいきたいという。奨学金も全額もらえそうだという。奨学金がもらえるなら、オックスフードでもケンブリッジでもどこにでもいきなさい。無料であれば、どこでもよろしい。

こっちは同じ年のころ、ヒッピーをやっていて、スペインかモロッコあたりをさまよっていた。放浪していた。漂っていた。ま、それぞれの歩いた人生が、そこで見たことが大学であるということだ。学ぶべきものがあれば。

酒を酌み交わしながらGが話すには、自分の考える哲学の先には最近いつも「禅」があるのだという。「無」があるのだという。自分は、もっと禅を勉強したい、体験したいという。私は、鈴木大拙を読みなさいといっておいた。大拙なら、いくらでも英文の本が出ている。

生きるということは、死を想うということだ。メメント・モリ。

時計

太田和彦という居酒屋評論家がいる。先日、久しぶりに彼のBS番組を見たが、相変わらずの気どりっぷりであった。札幌を飲み歩くのであるが、わが故郷を汚されているような気分になった。とにかく、酒にも肴にもエラそうな御託をたれるのである。

彼は、元資生堂のグラフィックデザイナーだったらしい。20年ほど前、友人のT君の車に乗っているとき、FMラジオでとにかく気どったやつがベラベラと喋りまくっていた。T君と「何だ、コイツ!」と話していたら、最後に太田和彦という名前がわかった。広告業界には、こういうカン違い野郎がときどきいる。

さて、そのBS番組だが、カウンターで生意気な口調で話している太田の手元を見ると、何だかギランギランのブランド時計をつけている。時計は、その人間の本性をずばりと現す。その人間の程度をあからさまに現す。自分に自信がない人間ほど、ブランド物の時計を身につける。わかりやすい。

居酒屋評論家として先鞭をつけていた太田だが、あとから現れた吉田類に一気に差をつけられた。吉田類の謙虚な態度に世間は好感をもったのである。

皆さん、時計には気をつけましょうね。