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ウナギ

いま私は、酒を禁じられている。ノンアルコールビールと焼酎の薄い水割りを1日に2杯ほどの禁欲生活を送っている。2度目のMRI検査の結果が芳しくなかったからだ。自業自得ともいえるが、やはり空しい。

そうしてわかったのだが、シラフだといくらでも本が読める。毎日、1日中、本が読める。1日中、酔っていたこの数年とは大いにちがう。これはこれで、ケガの功名であった。机のかたわらに本を積みあげ、片っ端から読んでいて、すごい本に当たった。アートディレクターの井上嗣也さんに教えてもらった「ウナギと人間」(ジェイムズ・プロセック)というノンフィクションである。

アメリカ東海岸キャッツキルの川で、大規模かつ強靭な簗(やな)をつくり、毎年ハリケーンの夜に増水した流れを海に向かって大集団で移動するウナギの漁をする世捨て人のような男、NZの先住民マオリがもつ大ウナギへの畏怖と畏敬の念、ミクロネシアのポンペイ島の住民がもつ大ウナギへの呪術的な想い。日本人のウナギの蒲焼への偏愛ともいえる食文化と東大海洋研究所によるその生態への最先端の科学的探求。著者のプロセックはただただウナギへの好奇心から、それらの地を訪ね歩く。南の島国に棲息するウナギは100年近くを生き、体長3メートル、体重50キロほどになるという。その巨大にしてかつ面妖な姿に、太古から人々はさまざまな物語をつむいできた。
学者の書いた学術書ではないから面白い。中学生のころ、イギリス人青年の西アフリカ・カメルーン密林での小動物観察記「積み過ぎた箱舟」(ジェラルド・ダレル)を胸おどらせながら読んだ日々を思いだした。 

大ウナギといえば、私もNZに住んでいたころ、クライストチャーチ近郊の川で鱒釣りをしていて不思議な光景を目にしたことがある。木立の生い茂る牧草地のへりを歩いていると、川幅8メートルほどの流れの対岸でパチャパチャと音がする。木立の枝をはらってみると、長靴を履いた老人が川に1メートルほど張り出した木製の台に立って、小枝の先につけた肉団子のようなものを水面にさし出している。すると、なにか黒っぽいものが水の中からヌウッと出てきてそれを咥えて消えた。そして、またおなじことを繰り返す。何度も、なんども。そこへ雲が流れて午後の木漏れ日があたった。水中に光が射した。まがりくねったその生きものは長さ1メートル半、直径10センチはゆうにあるウナギだった。餌やりが終わったあとも、ウナギは執拗に水面に顔を出し、もっともっとという仕草をした。私は老人に「こんにちは」と挨拶をし、「ウナギ、ずいぶん慣れてますね。どのくらい餌付けをしてるのですか」と訊いた。「うーん、10年くらいかな」「餌は、何ですか」「ドッグフードさ」「彼に名前はあるんですか」「いいや、ウナギはウナギさ。だけど、わしがこの川岸にくる足音でわかるみたいで、その前に水面から顔を出すんだ。待っているんだよ」。なだらかで、静謐なたたずまい。ゆったりとした川の流れる農家の裏庭だった。

「ウナギと人間」は、ここ数年でもっとも読書の醍醐味を味わえるノンフィクションであった。


ダイ・ハード

私は半世紀ほどにおよんで、酒と煙草に浸る生活をつづけてきた。そして、今回の転倒による後頭部の打撲である。MRIによる検査結果を頭部のスキャン映像で見せられて、そろそろ年貢の納めどきと半ば観念した。

内臓のMRI検査の結果は後日ということだった。だが、しかし、私には結果がほぼ予測できた。肝硬変になっているのは、まず間違いがないであろう。肝臓がんの可能性も50パーセントはあるであろう。あれほど、昼夜を問わず飲みつづけてきたのだから。
そして食道がん、肺がんにかかっていても何ら不思議ではない。私が健康診断を受けないのは、そういう宣告をされるのがいやだからである。

そして昨日の夕方、従兄のKから内臓検査の結果が届いたという電話があった。まず結論からいうと肝硬変にはなっていない。アルコールによる肝臓のダメージ数値ガンマGTBは700(5年前に調べたときは800だった、ただし健康な人の数値は20くらい)。しかし肝脂肪の数値は高く、糖尿病の気がある。これは薬を飲むよりも、酒をひかえ、とにかくたくさん歩くことで治すことができる。腎臓をふくめて、他の臓器はきわめて健康。そして、がん発症の予兆があると3つのがん酵素に数値がでるのだが、すべての数値が「ゼロ」。

私は子どものころから、やたら健康だった。そういうカラダをもらったことは両親に感謝である。あとは10日後にもういちどMRI検査を受けて、頭蓋骨の中がどうなっているかだけだ。それも薬を服用しているうちに頭のぼんやりもなくなったし、耳の不調もほとんど治った。

いま深夜、私はニンマリとほくそ笑みながらグラスをかたむけている。


あけましてMRI

3週間ほど前に、酔って転んで頭を打った。左耳が聴こえにくくなったのと頭がぼーっとする症状がつづいたが、そのうち治るだろうとたかをくくっていた。しかし、一向に治る気配がない。

そこで昨日、横浜の方で脳神経外科を開業している従兄のKにコレコレシカジカでと電話をした。すると、すぐ来なさいという。で、病院を訪ねた。あいかわらず浴びるように飲んでいるのかというので、拍車がかかっていると答えた。では、脳と肝臓の両方をMRI検査しようということになった。両方で1時間ほどかかった。

終わってすぐ、モニターに映った脳のスキャン画像を見せられた。思った以上に大変なことになっていた。薬を飲みながら様子をみて、2週間後にもう一度MRI検査をしようという。そこで症状が進行しているか治まる方向に進んでいるのかを判断して、対処するという。

肝臓のMRIデータは採血したサンプルと一緒に知人の肝臓専門医に送って分析してもらうという。肝臓は脳よりもヒドイことになっている気がする。

もう2度と深酒をする気がなくなった。


年越し

今年も終わる。自堕落に、自堕落に。この2週間以上、24時間、飲みっぱなしだった。

酔って転んで、アスファルトに頭を打ったので頭痛がつづき、危ないとおもって風呂にも入らなかった、しかし風呂に入って死ぬ人間はいても、風呂に入らずに死ぬ人間はいないそうだ。

まだ左耳の不調はつづくが、頭痛はほぼ消えた。そろそろ風呂に入ろうかとおもう。鏡を見ると、白い無精髭もかなりなものだ。

この10数日間、私は何をしていたのだろう。何冊かの本を読んだのだけれど、内容はあまりおぼえていない。あとは、ボルチモアのGと久しぶりにスカイプで話したくらいである。あとは、おぼろ。

ということで、年賀状はもうやめました。皆さま、よいお年を。


ガウディなんて知らなかった

昨日のつづきである。

1972年末、私はスペインのバルセロナにいた。23歳の頃である。毎日、路地裏の居酒屋を飲み歩いていた。しかし、ガウディの建築物を見たことがない。

なぜなら、その頃「地球の歩き方」のようなガイドブックがなかったからである。ガウディなんて知らなかった。私が知っていたバルセロナは、「泥棒日記」を書いたジャン・ジュネのバルセロナだけだった。男色家で売春をしながらフランス、スペイン、モロッコへと流れていくジュネの歩く街だった。私は「泥棒日記」の文庫本を片手に、街を歩いた。

よかったとおもう。観光ガイドブックに鼻ずらを引きまわされるような旅ではなかったのだから。いまは、インターネットでもっと詳しい世界中の情報が手に入るのであろう。しかし、それでは旅に出る前に、旅は終わっているのではないだろうか。
旅とは、未知の世界に行くことだ。

過剰な情報とは、不必要なものではないだろうか。未知とは、自分の頭とからだで感じるものではないだろうか。

ある種の人間は、まっ白な地図に踏み出していく。


クリスマス・イヴ

無宗教の私にとって、クリスマスというのは何の感慨もないものである。しかし、ひとつだけ思い出す景色がある。

1972年末のスペイン、バルセロナ。私のヒッピーの旅も2年近くを過ぎ、疲れがでていた。街の中心を走るランブラス通りの近くにあったスペイン広場に面した安酒場で、イスラエルのサーカス団の連中と知りあった。何だかよく知らないうちに意気投合し、彼らのサーカス団に誘われた。これからポルトガルに行き、その後は南米に行くという。

私はその頃、自暴自棄になっていた。紙風船になって、どこかに飛んで行きたい気分だった。だから、「イイヨ」と応えた。しかし話しているうちに、何の仕事をするかということになった。私はサーカスでできるような特殊な能力はない。動物の小屋の掃除しかできないよと言った。そこで、その話はしぼんでいった。それはそうだろう。もともと、無から生まれた話だったのだから。

その数日後のクリスマス・イヴだった。私はバルセロナの中心にある一泊200円の宿に泊まっていたのだが、街じゅうがざわめいていた。そこで外に出てみると、近くの大きな教会の広場で、数100人の人々が歌を歌いながら踊っていた。それは、さんざめくというか、どよめくというようなパッションの集合体だった。熱い風景だった。

なかでも私の目をひいたのは、深紅のドレスを着た圧倒的に美しい黒髪の20歳くらいの女性だった。まさに、カルメンだった。背すじをのばし、からだをくねらせ、ジプシーの女王を演じていた。石畳の上で、真っ赤な薔薇が風に舞っていた。

私は、ビゼーのカルメンをこの目で見た。それが、いまも脳裏にはっきりと残っている。本物のカルメンに会ったのだ。


年末の終末

今年も、あとわずかである。きょう土曜日の夕方は4時くらいから、フライフィッシングの竿工房「マッキーズ」で35年くらいつづく恒例の忘年会。昔は銀座裏の新富町だったが、いまは引っ越した先の本郷。いずれにしても狭い工房で、それぞれが持ちよった酒と肴でワイワイガヤガヤと頬をピンクに染めてたわいもない話で盛りあがるという冬の花見。

いま午後5時を過ぎて、天真爛漫な大バカ釣り好きどもが盛りあがっているのであろうが、私は参加できない。残念、無念、悔しい。

この水曜日の夜。私はコピーライターの先輩である長沢さんとふたりで忘年会をすることになった。昔のように赤坂の古い酒場Gで待ち合わせ。我われにとって、80年代から90年代にかけて足繁く通った日本一のバー。マスターは現在87歳で、いまもしずかに微笑みながら一人で営業されている。長沢さんと私が会うのは半年ぶりなので、積もる話に花が咲く。3時間ほどカクテルやウイスキィーを飲んで、近くのKに河岸を変える。

Kはいま東京でいちばんのバーテンダーK君がやっている酒場だが、我われは調子に乗り過ぎた。ワインだ、シングルモルトウイスキィーだ、カクテルだと朝の5時までグラスを傾けた。高い調子で侃々諤々やりすぎた。どうでもいい、たあいもない話のくりかえしだった。とにかく長っ尻で、店にひどく迷惑をかけた。

青山通りで長沢さんとわかれてタクシーで私は帰宅した。そして車を降りたところで私は後ろにドンところんだ。後頭部をアスファルトにゴンと打った。昼頃に目が覚めると、左耳があまり聴こえなくなっていた。頭がボーッとした状態がつづいている。でも、ボーッとしているのはいつもだ。夢と現(うつつ)の境目がみえない。

身近なKに相談すると、いますぐ脳神経外科でMRI検査を受けなさいという。といっても私は閉所恐怖症なので、ああいうものはきらいだ。生きながら棺桶に入れられるようなものだ。とりあえず、週明けまで様子を見てみようとおもう。いまは酒を飲みながら、ジェフリー・ディヴァーの近作と森茉莉を読んでいる。本を読めるのだから、たぶん大丈夫だとおもう。

ということで、「マッキーズ」の忘年会には出席できなかった。ただ、このまま死んだら恥ずかしいので、とりあえず家にあるエロ雑誌はすべて処分しました。


IMAGINE

深夜にラジオを聴いていると、ジョン・レノンの特集をしていた。聴きながらおもった。彼は、20世紀のモーツァルトなのだと。ただただ、宇宙からおりてくるものを口ずさんでいただけなんだ。産みの苦しみなんてなかったんだ。眉はいつもひらいていた。うまれたままに曲をつくっていたんだ。

だから、その音楽はすばらしい。その詩はすばらしい。そこに、わずかの計算もない。あるのは、5歳の少年の無垢な感情だけだ。ピュアということだ。ピュアとはどういうことかというと、生きにくいというだ。世間とは同調しないということだ。

2か月ほど前、若い友人たちと飲んだとき、私はボブ・ディランはたぶんノーベル文学賞に選ばれたことは受諾するが、授賞式には出ないだろうといった。そのとおりになった。

そのとき、私がちからを込めて彼らにいったのはこういうことである。でも、ジョン・レノンが生きていたら、「IMAGINE」でノーベル文学賞とノーベル平和賞をダブル受賞できたであろう。「想像してごらん、国境のない世界を」と歌ったのだよ。

さらに、いった。でも、ジョンはそれらの受賞を言下にことわったでしょう。まちがいなくことわったでしょう。ジョン・レノンは、そういう男だった


 ベランダに10数個のプランターがある。そこには、イチジクやラベンダーやローズマリー、ヴィオラなどが風に吹かれている。私はその景色を毎日たのしんでいる。

先ほどベランダを眺めていると、オレンジと黒の縞模様の小さな蝶が花から花へと移り飛びながら、蜜を吸っていた。それを見ながらおもった。あの蝶はあのように生きながら、やはり喜怒哀楽とか人生のようなものを感じているのであろうかと。

すると、プランターのまわりを一匹の小さな蟻が素早く走りまわっている。それを見ながらおもった。あの蟻はあのように生きながら、やはり喜怒哀楽とか人生のようなものを感じているのだろうかと。

ずーーーっと上から見ると、人間も同じようなものではないかとおもった。


知らない街へ

きょうも、きのうのように流れていく。でも、一昨日はKと会ってワインを飲みながら恵比寿でインド料理を愉しんだ。Gは3週間ほど前、ボルチモアで反トランプデモに参加したという。

きょうも、私は日がな酒を飲み、新聞を読み、テレビを見ながら、一日を過ごす。ベランダでは、ヴィオラやシクラメンやアイビーが風に揺れている。

そしていま、ヴィバルディを聴きながら来し方を思い出す。ロスアンジェルス、バンクーバー、サンディエゴ、ポートランド、サンフランシスコ、ニューヨーク、アトランタ、ロンドン、パリ、ヴェニス、バルセロナ、フェズ、リスボン、タカオ、バンコック、ホーチミンシティ、アカプルコ、ティファナ、シドニー、メルボルン、クライストチャーチ、ダニーデン、歩いた街の景色が眼前にうかぶ。なんて素晴らしい街歩きをしたのだろう。
私は、幸せ者だ。

「Youは何しに日本へ」というテレビ東京の番組があるが、私は1970年頃から、「Youは何しに海外へ」ということだったのであろう。私は、幸せ者だ。


スマートでないフォン

道を歩いていても、電車に乗っても、みんなスマートフォンを片手にちいさな画面を見つめている。それがいまやふつうの景色になっている。その景色が異常に見える私が、時代遅れのアナログ人間として異常なのだろうか。

彼らは紙に印刷された活字への飢えはないのだろうか。最近は電車の中で、新聞や本を読んでいる人を見かけると、インテリに見える。それがたとえ東京スポーツであろうとである。きょう、電車の中で文庫本を読んでいる30代の男性と40代の女性を見た。まわり中がスマートフォンの画面を見ている中で、彼らはきわめてマトモに見えた。これもやはり、私の偏見であろうか。

最近は若い人間と仕事の延長で食事をしたり飲んでいても、ずーっとスマートフォンを見たり、画面に指を遊ばせている輩が多い。SNS依存症だ。これは、やはりコミュニケーションのマナーに反しているであろう。そこで、私は「その電源を切りなさい」という。これも、偏屈ジジイの暴言であろうか。

電車の中で皆がみな、スマートフォンをいじっている景色を見ながら、私は最近こう思ったりする。これは地球侵略をもくろむ宇宙人が、人類の脳みそをゆっくりと溶かすための作戦ではないだろうかと。


アンコウと雪


きのう、国立劇場で「仮名手本忠臣蔵」の第二部をO氏のお招きで観た。私には歌舞伎の素養はないので、ほぼ四時間の演目は正直長かった。しかし、最後の七段目「祇園一力茶屋の場」の中村吉右衛門はとにかくカッコヨカッタ。まさに役者絵であり、浮世絵であった。ほれぼれとする男前であった。様子がイイという言葉は、こういうときにつかうのであろう。吉右衛門は、ジョージ・クルーニーに勝っていました。

幕が下りた後、O氏と中目黒に移り、アンコウ鍋をいただく。とてもおいしかった。そんなことを帰宅後、当ブログに長文で書いたのだが、数時間ほど寝た後PCをひらくとすべて消えてしまっていた。だから、まいったなァーとおもいながらいま書き直している。前回の文章は思い出せない。ま、しょうがない。

とおもったら、おッ、いまベランダの窓越しに雪がふりまくっている。だけど、こんなの北海道ではふつうだぞ。いいなァ。ふれふれ、真っ白、もっとふれ。

そして、ラジオからはプロコフィエフの交響曲が空からふるように流れている。

PS
先ほどまで、この欄に、白神山地にブナの苗を植えようという自分の名前を冠した運動をしているNを偽善者だと批判する記事を載せていたがマチガイでした。お詫びいたします。先ほどオンブさんに電話で確かめたところ、Nの活動はまったくの慈善活動であり、自分の名前を出していないそうです。でも、マサはそう言っていた。マサは最近、かなりボケが入っているそうです。たしかに、近頃は電話でも何を話しているのかよくわからないことが多い。ま、それが歳をとるということでしょう。明日は、わが身。


遠い宴

一昨日の夜である。弘前のマサから電話があった。
「いま、ホートンで盛りあがっているんだ。オンブさんたち6人と日本酒とウィスキーをもち込んでな。オメも来れたらよかったのにな」

向こうも酔っぱらっているし、こちらも酔っぱらっていた。何のことかはよくわからなかったので、昨日電話で確かめるとこういうことであった。

4日前に、マサは今年の林檎農家の手伝い仕事を無事に終えたという。彼も、もう71歳である。半年におよぶ仕事はかなりキツかった。そこで仲間で打ち上げをしようということになった。それはたぶん、人情派オンブさんの差配であろう。「お疲れ、マサの夕べ」である。そこで、仲間が集まっての酒盛りとなった。

集まったそれぞれの名前を聞くと、私にも大いに覚えのある面々である。皆さん、かなり個性のつよい男たちである。言葉は荒いが、こころは優しい。さぞかし、罵倒しながらのラテン系の明るいオヤジ会話がつづいたのであろう。NHK-BS3の「世界入りにくい酒場」の津軽篇である。

先日、マサから大量のキノコが送られてきたので、お返しに私もスコットランド・アイレイ島のシングルモルトウィスキー「ボウモア」を1本送っておいた。それを皆さんでたのしんでいただいたようだ。よかった。


桜木柴乃

一昨日、久しぶりに友人のO氏とH嬢と渋谷で飲んだ。雨上がりの寒い夜だった。私は25年ほど前に買った赤と黒のダッフルコートにソフトハットといういで立ちで出かけた。H嬢は「わーッ、カワイイ!」「オッサレー!」と言ってくれた。正直、うれしかった。そのあと、銀座、赤坂へと流れる。

そこで、3人ではずんだ会話である。みな、とにかく本好きである。会うといつも最近読んだ本の話になる。今回は、桜木柴乃である。3人とも彼女の本を読んでいるので、その話で大いに盛り上がる。とくに、彼女の前作「ウラル」であり、近作の「裸の華」である。直木賞を受賞した「ホテル・ロイヤル」もそうだが、彼女はいま、日本一のエンターテイメント小説家であろう。

小説とは、面白いのがいちばんエライ。いまいちばん面白いのは、桜木柴乃である。


半径1キロ以内の話

1週間ほど前、歩いて15分ほどのホームセンターに行った。壊れたカーテンレールのフックを買うためである。そして、そこは園芸用の植物がかなり広いスペースに充実しているので、いつものように見てまわる。寒くなってきたので、そろそろベランダのプランターに植えたいとおもっていたスミレ科の小型種ヴィオラがあった。ひかえめでありながら小さな可憐な花を咲かせる私の大好きな鉢植えである。寒さにつよく、雪にも耐える。なかには、冬を越すのもいる。私は毎年、プランターに植える。1鉢200円であった。

10鉢ほど買いたいと思ったが、私はその1週間ほど前、自宅で酔って転倒し、背筋を痛めていた。深夜、焼酎の一升瓶を持ったまま足がもつれて後ろに倒れた。そのとき、カラダがねじれた。ベッドからおりるのに5分ほどかかるほどの重症であった。歩くのがやっとである。とても、鉢植を10鉢も持って歩けない。

その数日後である。いつも通う歩いて10分ほどの図書館に行った。その帰り道、いつものようにその裏にある花屋に寄った。そして、小さな多肉植物をひとつ買った。40代半ばの店主はいつものようにニコニコと応対してくれた。いつもいる感じのよい女性店員ふたりはいない。店頭を見ると、ヴィオラは1鉢150円。

そして駅の方に向かって歩くと、20メートルほどのところに新しい花屋ができていた。エッ!とおもって、中をのぞくと以前から知りあいの前述の花屋の女性がいた。「ここは、あの店の支店ですか?」とおもわず私は訊いた。「いいえ、子どもと一緒に家を出てきました」ときっぱりいう。それにしても、20メートルである。あまり人通りのない通りの20メートル。これは、かなりの確執がありそうだ。内戦か。店頭を見ると、ヴィオラは1鉢100円。

さて、私はどこでヴィオラを買ったらいいのだろうかと悩んだ。私は日々、何度もベランダの植物を眺める。そして癒される。そこで毎回、花を見るたびに男と女の確執を思いおこされるというのはいかがなものであろうか。

けっきょく昨日、私はホームセンターで1鉢200円のヴィオラを10鉢ほど購い、プランターに植えた。